タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

サーキュレーション

サーキュレーション【circulation】
意味
1 循環。流通。流布。
デジタル大辞泉小学館

乃木坂46の「地球が丸いなら」のMVが公開されたので、考察にもならない雑感を徒然と。
乃木坂46 『地球が丸いなら』Short Ver. - YouTube

のっけから関係なさそうな用語の引用で始めました。
MV見た最初の感想「曲とストーリー関係なくね?」です。ツイッターでもそんな感想をチョイチョイ見かけた。
でも歌詞を読みこんでみて、連想できないストーリーではないなって気がしてきた。

もし 地球が丸いのなら
またきっと 帰って来る
水平線(ホライズン)の彼方から

終盤、砂浜を歩く3人の向こうには広い海と、空との境界。そして「地球が丸いなら」というタイトル。
彼女たちが何を思って冒険に出たのかは解らないけど、破滅的な逃避行ではなく、帰るという明確な意思を最初から持っていたことは伺える。でも、帰る場所があるからこその小さなイタズラとも考えられるけど、あの3人はどこをどう歩いても元の場所に戻ったんじゃないかと思えてならない。地球は丸いから、いつかグルっと回って戻ってくる。そういう暗示。

旅のしおりからも、行きと帰りでルートが違うことが読み取れる。新宿から品川経由で鎌倉に行き、同じ道を戻らずに江ノ島を経由して小田急で新宿に戻る。
「往復」ではなく「循環」
これって結構意味のあることだと思っている。
行って帰ってだと何となく無駄な感じがするけど、グルっと一周して帰ってきたら、その間に出会った諸々を拾って自分の中にすくい上げて、自分の中に何か変化があったような気持ちになれる。戻ってきた場所は確かに元の場所だけど、以前と同じ見え方ではないというか。
気分の問題でしょと言われてしまえばそれまでだけど。

ずっと以前、B'zが「Liar! Liar!」という曲を発表した時に、どこかの音楽誌が「螺旋的上昇」って言葉で評価を述べていたのを覚えている。簡単に言えば「一周回って戻ってきたけど、前よりグレードアップしてる」ってこと。ロードムービー的な映像作品って、少なからずこの要素が含まれている気がするんだけど、今回のMVを見ても、共通する要素を僕は感じた。
乃木坂っていつも同じような路線の曲を出しているようにも思うけど、それを歌う彼女たち自身は常に変化し続けている。だから、当然ながら同じ曲は二つと存在しないし、一つの曲を繰り返し歌っていても、毎回違う音色を届けてくれる。そんな乃木坂46の姿にも重なるものを見た。
今作の詞の中にも、過去の作品を連想させるキーワードが散見されて(それこそ、ただの偶然かも知れないけど)、当時に思いを馳せて今との比較で成長を感じながら聴けるのもまた楽しい。

そう 海流に乗って いつの日か
輝いた情熱と愛の日々

バスに戻り着席した飛鳥(役)の表情。ただ「楽しかった」だけでは済まされないような、何かを悟ったような眼差し。小さな冒険の中にも彼女たちは確かに非日常に触れて、何かを得て戻ってきたのだと思う。ありふれた言い方をすれば、「あのたった数時間で彼女たちは大人に近づいた」のだと感じた。

靴から払い落とされた砂粒が、あの道中で拾い集めた青春の欠片たちの、その残滓であるように映った。あの数時間こそが彼女たちにとって「輝いた情熱と愛の日々」の象徴となり、生涯かけがえのない物であり続けてくれたらと願う。

感想はこれで終わりなんだけどね。
冒頭で引用した辞書、実はまだもう一つ意味があったらしい。

2 普及度。普及高。特に、新聞・雑誌の発行部数やテレビ・ラジオの視聴率。

...だってさ。
乃木坂がもっと羽ばたいて世に知れ渡って、でも彼女たちがまた同じ場所に戻ってきてくれたら良いな。

※ 21stシングル「ジコチューで行こう!」カップリング曲

割り切れない話

先日、舞台「半神」を観劇してきた。

螺旋方程式「1/2 + 1/2 = 2/4」に象徴される「割り切れない話」を巡る物語だった。
あ、あくまでも僕の印象ね。

幼いころ、シュラは自分たちが周囲の人間と少しだけ違うことに気づいていた。でも、 自分には頭や手足が他の人の倍あるというだけで、体の繋がった妹マリアが、自分とは別の人間だということには気づいていなかった。だから彼女は自分たちのことを「わたし」「ひとり」と表現していた。

僕の好きな小説の中にこんなフレーズがある。
「大人になるほど、どんどん単純へ向かうんだよ」(※1)
「人格だけじゃない、すべての概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです」(※2)
「凡人は、ものごとを単純化しないと飲みこめない。それだけの器しかないからです。(中略)結局は、答を一つに規定する。この単純化を伴う統合に、自らの能力を抑制する。それが普通の人間です。ところが、彼らはそれをしない」(※3)
「子供の頃の発想というのは。自分で言うのもなんだけど、天才的だね。とても自由で...、飛躍している。たぶん、その一日だけ、僕は天才だった」(※4)

大人になるにつれ、思考はシンプルになる。
周囲との折り合いをつけるため。自分を守るため。面倒なことを排除して、削ぎ落として、心の負担を軽くしていく。
だけど、子供の頃の思考は、非常に複雑で不安定で自由で、誰しもが当たり前のように多様性を持ち合わせ、統合されない自らの内面に戸惑い、割り切れない自己矛盾を感じて、憤り、葛藤していたはずだ。そうして徐々に自己と他者との境界を自覚し、割り切ることを覚え、自らの「形」を整え、自他の相違にまた憤り、時に感動するようになる。

物語が進むにつれ、シュラは自分たちのことを「わたしたち」「ふたり」と表現するようになった。それは「成長」と呼んで差し支えなかったと思う。
だけど彼女は気付いてしまった。負担となる半身を切り離すということは、 統合されていない自己を切り離すということ。それは、「割り切る」ということ。思考を単純化するということ。

そして、孤独に近づくということ。

それらを指して「大人になる」と表現するのであれば、確かにシュラとマリアはそういう過程を経て大人になっていくのだろう。
だけど、ここでまた別の好きな小説を引用したい。

「生き残った子だけが、大人になる」(※5)

生きて子供の時代をくぐり抜けなければ、その先に大人になることは絶対にない。これは抗いようのない現実。ただ、大人になる筋道は一つとは限らない。もしかしたら彼女たちが大人になる方法は他にもあったのかも知れない。先生が1年と24時間、心身を削って模索し続けのは、正にその道だった。それでも彼女たちは、互いを切り離す道を選んだ。孤独の果てに辿り着いた彼女たちに、救いはあったのだろうか。或いは、その孤独こそが救いとなり得ただろうか。

立ち止まって考えられる時間には、制限がある。だから、人生にはいつでも後悔が付きまとう。割り切ってしまったが故に残る、割り切れなさ。圧倒的な矛盾。
「他に道は無かったのか」
そうして後悔を抱えながら、生きるためにこれが最良だったと信じて進むしかない。たとえ割り切れなくとも。

若い頃には僕も、事ある毎にそういう「割り切れなさ」を感じて、激しく葛藤していたはずだ。
そんな記憶を呼び覚まして、胸に心地良い痛みを与えてくれる、美しい物語でした。

引用
1:森博嗣数奇にして模型」P.329
2:森博嗣有限と微小のパン」P.127
3:森博嗣有限と微小のパン」P.128
4:森博嗣封印再度」P.422
5:桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」P.188