タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

割り切れない話

先日、舞台「半神」を観劇してきた。

螺旋方程式「1/2 + 1/2 = 2/4」に象徴される「割り切れない話」を巡る物語だった。
あ、あくまでも僕の印象ね。

幼いころ、シュラは自分たちが周囲の人間と少しだけ違うことに気づいていた。でも、 自分には頭や手足が他の人の倍あるというだけで、体の繋がった妹マリアが、自分とは別の人間だということには気づいていなかった。だから彼女は自分たちのことを「わたし」「ひとり」と表現していた。

僕の好きな小説の中にこんなフレーズがある。
「大人になるほど、どんどん単純へ向かうんだよ」(※1)
「人格だけじゃない、すべての概念、価値観が混ざっていないのです。善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、これらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。けれど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです」(※2)
「凡人は、ものごとを単純化しないと飲みこめない。それだけの器しかないからです。(中略)結局は、答を一つに規定する。この単純化を伴う統合に、自らの能力を抑制する。それが普通の人間です。ところが、彼らはそれをしない」(※3)
「子供の頃の発想というのは。自分で言うのもなんだけど、天才的だね。とても自由で...、飛躍している。たぶん、その一日だけ、僕は天才だった」(※4)

大人になるにつれ、思考はシンプルになる。
周囲との折り合いをつけるため。自分を守るため。面倒なことを排除して、削ぎ落として、心の負担を軽くしていく。
だけど、子供の頃の思考は、非常に複雑で不安定で自由で、誰しもが当たり前のように多様性を持ち合わせ、統合されない自らの内面に戸惑い、割り切れない自己矛盾を感じて、憤り、葛藤していたはずだ。そうして徐々に自己と他者との境界を自覚し、割り切ることを覚え、自らの「形」を整え、自他の相違にまた憤り、時に感動するようになる。

物語が進むにつれ、シュラは自分たちのことを「わたしたち」「ふたり」と表現するようになった。それは「成長」と呼んで差し支えなかったと思う。
だけど彼女は気付いてしまった。負担となる半身を切り離すということは、 統合されていない自己を切り離すということ。それは、「割り切る」ということ。思考を単純化するということ。

そして、孤独に近づくということ。

それらを指して「大人になる」と表現するのであれば、確かにシュラとマリアはそういう過程を経て大人になっていくのだろう。
だけど、ここでまた別の好きな小説を引用したい。

「生き残った子だけが、大人になる」(※5)

生きて子供の時代をくぐり抜けなければ、その先に大人になることは絶対にない。これは抗いようのない現実。ただ、大人になる筋道は一つとは限らない。もしかしたら彼女たちが大人になる方法は他にもあったのかも知れない。先生が1年と24時間、心身を削って模索し続けのは、正にその道だった。それでも彼女たちは、互いを切り離す道を選んだ。孤独の果てに辿り着いた彼女たちに、救いはあったのだろうか。或いは、その孤独こそが救いとなり得ただろうか。

立ち止まって考えられる時間には、制限がある。だから、人生にはいつでも後悔が付きまとう。割り切ってしまったが故に残る、割り切れなさ。圧倒的な矛盾。
「他に道は無かったのか」
そうして後悔を抱えながら、生きるためにこれが最良だったと信じて進むしかない。たとえ割り切れなくとも。

若い頃には僕も、事ある毎にそういう「割り切れなさ」を感じて、激しく葛藤していたはずだ。
そんな記憶を呼び覚まして、胸に心地良い痛みを与えてくれる、美しい物語でした。

引用
1:森博嗣数奇にして模型」P.329
2:森博嗣有限と微小のパン」P.127
3:森博嗣有限と微小のパン」P.128
4:森博嗣封印再度」P.422
5:桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」P.188