タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

ひきよせて結べば柴の庵にて 解くればもとの野原なりけり

メンバーの卒業や新メンバー加入についての雑感。(またしてもオチの無い話)

 

「メンバー増やせば良いってもんじゃないだろ?」

「一期生の大半が卒業したら乃木坂じゃないよ」

「四期生ちゃん、清楚でいかにも乃木坂っぽくて期待できる」

「可愛いだけの子に興味ない」

卒業ラッシュや四期生加入について、いろんな意見がありますよね。

僕は、これを考えるにあたって、「乃木坂46とは何か?」という問いを避けて通れない気がします。

もちろん人によって考えは違うだろうし、正解なんてものは無いです。あくまでも僕の考えです(いちいち断るまでもなく、僕は僕の主観でしか物事を考えられないし、語れないので、ここに記すことは全て僕の考えや決めつけでしかありませんが、念のため)。

 

メンバーの変遷は今に始まったことではありません。過去にも卒業や加入はありました。一人入れ替わっただけでも、前と同じではないです。でも、これだけ大人数のグループだと、確かに一人入れ替わったぐらいでは、傍目にはそんなに大きな変化ではないかも知れない。

じゃあ二人入れ替わったら?三人なら?五人なら?十人なら?

たぶんだけど、「何人までならセーフ」とか「何人入れ替わったらアウト」って話ではないと思います。

 

仏教の伝承に「ミリンダ王の問い」というエピソードがあります。

ミリンダ王というお偉いさんが、ナーガセーナという賢者と対話した内容を記したものです。

ナ「自分はナーガセーナと呼ばれているが、それはただの名前であって、実際にナーガセーナという実体は存在しません」

王「では、今ナーガセーナと呼ばれる貴方は何者なのか。嘘をついてはいけない」

ナ「では、『車』とは何でしょうか。車輪ですか。軸ですか。柄ですか。台ですか。それらを合した物体ですか」

王「それらのどれも『車』ではない」

ナ「その通りです。それら全ての関係性に縁って、『車』という名前が起こるのです。先ほどのナーガセーナの説明も同じことです」

王はさらに問う。

王「変化するものは、変化の前後で同じか否か」

ナ「同じとも言えるし、同じとも言えません。例えば、一日中、火を灯していた時、最初と最後で、この炎は同じものでしょうか」

王「同じではない」

ナ「では違う炎でしょうか」

王「いや、そうとも言えない」

ナ「その通りです。最初と最後で完全に同一の炎ではなくとも、同じものを燃やして灯し続けた炎なので、別物とも言えません」

(大雑把に言うとこんな感じ。詳しくは自分で調べてみてください)

 

ここで、もう一つ別のエピソードを。

ヒトの細胞は死滅と生成を常に繰り返していて、どんどん新しい細胞に生まれ変わっていきます。(入れ替わらない組織もあるけど)ほとんどの細胞は長いものでも一年ほどで入れ替わります。つまり、一年前に僕だった物質の大半はもうこの世には存在しないことになります。では、今ここに存在する僕は僕ではないのでしょうか。

確かに細胞一つを取り出しただけでは僕とは言えない。でも、それらが寄り集まって、僕の意識を形成し、僕として思考する時、それは明らかに僕なのです。(ゲシュタルト崩壊してきた)。

 

これらの話って、乃木坂の状況に似通ったものがあると思いませんか?

つまり「乃木坂46とは何か?」「メンバーが入れ替わったグループは、以前のグループと同じなのか?」ってこと。

でね、僕は乃木坂ちゃん個々のメンバーだけでは「乃木坂46」とは呼べない気がするのです。たとえ一期生であっても。前にもブログで書いたけど、彼女たちは寄り集まって互いに高め合ったからこそ個性が花開いたのであって、個人ではあそこまでキャラが付かなかったんじゃないかと、僕は考えています。

かと言って、単に適当な人を集めてきて「乃木坂46」の名前を冠しただけでは、やっぱり僕がイメージする、あの「乃木坂ちゃん」にはならなかったと思います。

 

ここにきて、2015年ごろ彼女たちが盛んに口にしていた「乃木坂らしさって何だろう?」という問いが活きてくると思います。

清楚な感じ?上品さ?可愛さ?綺麗さ?

どれも間違いではないけど、どれもそのものズバリの正解ではないと思います。たぶん。だって、清楚で可愛い子なんて、芸能界にはいくらでもいるんだもん。だけど、乃木坂ちゃんを説明しようとすると、使わずにはいられないワードであって。

おそらく、それら一つ一つの要素が、彼女たち全員の意識の下に集まって、彼女たちに依拠するからこそ「らしさ」というものが形成され発揮されたんだと、僕は思います(とは言え、僕の理解力と文章力では「乃木坂らしさ」を言語化することは到底困難で、言動の事例を取り上げて、なんとなく「これは乃木坂らしい」とか「らしくない」って感想付けるのが精一杯ですが)。

 

翻って、「乃木坂らしさ」が発揮されて、独り歩きするようになった今、オリジナルであったはずの一期生がいなくとも、その「らしさ」を受け継ぐ子がいれば「乃木坂46」は残ると思います。ただ、それは見てくれだけ真似れば良いわけではありません。また、一朝一夕で身につくようなものではないでしょう。

僕は乃木坂の「らしさ」を端的に示すものとして、時折り見られる、メンバー同士のワチャワチャした雰囲気が挙げられると思っています。あんまりキャーキャーわめく感じではなく、のほほんとしていて、互いに立場を入れ替えながら、常に相手を優しく見守っているような、そんな感じ(圧倒的語彙力の欠如)。

あれって、やっぱり一朝一夕に築き上げられたものではないですよね。二期生も三期生も、加入時は互いに恐る恐るだったと思います。共に仕事をして、次第に打ち解けて、時間を掛けて関係を作り上げてきて、ようやく今のような、期生に関係なく仲良さげにしている雰囲気を醸成できたのだと思っています。

そんな風に考える僕は、やはり最初は二期生を見ても三期生を見ても「乃木坂ちゃんっぽくない」って思っていましたが、今では「この子たちも乃木坂なんだね~」って思うようになりました。だから四期生についても同様、これから先輩たちと苦楽を共にしていくうちに、徐々に乃木坂らしくなっていくのだろうと、ひっそりと期待しています(勿論その前に乃木坂らしさが消滅してしまう可能性だってゼロではない)。

 

逆に、一期生の子たちから生じて形成されていった「乃木坂らしさ」だけど、その概念が独り歩きを始めたとなれば、当人にとっては呪縛にもなり得るのだと思います。アイドルの「らしさ」というのは、とても強い制約(あれをしちゃいけない、これをしちゃいけない...)を伴うものです。だから、彼女たちがさらに自らの行動の枠を広げていきたいと願った時、その「らしさ」を脱ぎ捨てるために、卒業という道を選択するのは、ある意味で必然なのだろうと。

 

一期生から始まって、彼女たちが自分のアイデンティティを求めて、作り上げてきたもの。それこそが乃木坂の「らしさ」の根源ではあるんだけど、それは彼女たち自身でもあるし、一方で、彼女たちを覆う「膜」のようなものでもあり、彼女たちから乖離した別個の存在のようでもあります。それでいて、一期の子たちが存在しなければ、絶対に形成されなかったもの。

「乃木坂らしさ」とは、実体がない、とても幻想的で儚い存在のように思えます。なればこそ、それを受け継ごうとしてくれる子の存在はとても貴重だと考えます。たとえ、その「らしさ」が時を追うにつれ、次第に形を変えていくことになったとしても。

 

そんな独り言でした。

 

「思います」が多くて目が回る。この文章の下手さをどうにかしたい。笑