タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

Shape of Things Human

演劇ブランド「filamentz」プロデュース、「息を止めるピノキオ」という劇を観てきました。

http://pinocchio.mystrikingly.com/

乃木坂ちゃん全然関係ないんだけどね。劇団「柿喰う客」(最近すっかりハマった)の加藤ひろたかさんが出演されるということで。

 

簡単にあらすじ説明をするとこんな感じ(ネタバレ含む)↓

人里離れた山奥に住む科学者が、死んでしまった優秀な息子を模したロボット「ピノキオ」を作った。ピノキオは高度な人工知能と運動能力を有する、ほとんど完璧な存在だった。ただ一点、「人間らしさ」と呼べるような「心」だけが欠けていた。

ピノキオの望みは一つだけ、「人間になりたい」ということ(それさえも科学者=父親によって埋め込まれたプログラムであるが)。父親はこの欠点を埋め、完璧な人間へと近づけさせるため、エレナという住み込み家庭教師を雇い、ピノキオの教育係を任せる。

エレナとの交流がピノキオに「人間らしさ」を植え付けてくると同時に、ピノキオの行動に「揺らぎ」が生じて、完璧な人間を作りたいという父親の計画に綻びが見え始めてくる。さらにはピノキオの技術を軍事転用しようとする企業までが絡んできて、ピノキオは自分の存在意義を問い直すことになる。

最終的に父親は完璧な人間を作ることを諦めて研究を放棄、助手が屋敷に火を放つ。ピノキオはエレナと共に脱出するが、エレナの身を案じて別れを告げ一人で軍事企業に赴き、自らを研究材料として捧げることにして一生を終える。

とまぁ、展開としてはワリとステレオタイプな感じはあります。ただ、問いかけていたものは「生きるとはどういうことか」「心とは如何にして形作られるのか」みたいな、とても普遍的かつ深遠なテーマだったように思います。

ストーリー全体の感想というよりは、ところどころイマジネーションを想起される部分があったので、思いつくままに雑感を述べてみたいと思います。

 

・「完璧である」ということ

父はピノキオを完璧なロボットとして作り上げた。そしてピノキオに、より完璧であることを要求した。父はピノキオに足りないのは人間らしさだと言った。人間らしさを身に付ければ、彼は完成すると。

だけどここで疑問が生じた。

ピノキオは高度なテクノロジーを用いて製作され、既に完璧な存在になっている。絶対に失敗をしない。どのような状況でも、迷うことなく最良にして唯一の解を導くことができる。同じ状況が10回あれば、10回とも同じ答えを導くはず(これこそ科学の「再現性」と呼ばれるものだ)。一方で、人間はどこか欠けた部分があり、完璧とは程遠い存在である。悩み戸惑い、気分に左右され、体調に左右され、人間関係に左右され、如何なる判断にも「揺らぎ」を内包していて、ただの一度として同じ解は存在しない。エレナはたびたび「完璧な人間なんていない」と発言し、父親と衝突していた。「人間らしさ」とは、ある意味で、その欠落や揺らぎを正当化する言葉であるように思う。

にも関わらず、人間らしさを身に付けることで完璧になる、とはどういうことだろう。

人間らしさを身に付けなければ息子には近づけない。しかし人間らしさを身に付ければ優秀さを失い、理想の息子像から遠ざかっていく。父親はそのジレンマに耐えられなかった。(こういう「近づけば近づくほど遠ざかる」みたいなパラドックスなかったっけ?)

父親は「完璧な人間」を作りたかったのではなく、(記憶の中で美化された)人並外れて優秀な息子を完璧に再現したかっただけだ。さらには、そんな息子は最初からいなかった(父親の妄想だった)ことが判明し、ピノキオは自分自身が数多くのプロトタイプ(失敗作)の屍の上に立つ存在だったことを知り、父親と決別する。

結局のところ、エレナの言った「完璧な人間なんていない」って言葉が全てだよなぁ、と思った。幻想幻想。

 

・ロボットと人間

本来、「ロボット」とは「労働」を意味する言葉だ。人間から労働力だけを抽出した働く機械。それがロボット。つまり、ロボットとは、人間のごく一部の「パーツ」に過ぎない。元々が完璧ではない人間から生み出された物なのだから、ロボットだって完璧ではないはずだ。だけど、心という曖昧な存在を排除し、純粋に特定の動きだけに特化させて磨き上げたロボットは、その面に関してだけなら「完璧」と呼んで差し支えない、とも考えられる。労働力・生産力で比較すれば、人間はロボットより遥かに劣る。

これと似たことは「人形」にも置き換えられる。

人形というのは人の外見を模した物だけど、時々、人間の美醜に関して「人形のようだ」と評することがある。

「人形のように白く美しい肌」「人形のように可愛い」

人間の真似をするのが人形なのに、オリジナルであるはずの人間を「人形のように」と表現するのは矛盾している。しかし、人形という存在は大概がデフォルメされていて、目つきや唇や肌ツヤが、人間よりも愛らしかったり美しかったりする。デフォルメというよりは、ブラッシュアップと表現するべきか。

「青は藍より出でて藍よりも青し」なんて言うけど、人間から生まれたロボットや人形の方が人間よりも優れている、ということが現実に起こり得るのだ。だとすれば、(前項の話に戻っちゃうけど)ロボットに人間らしさなんて要らないよなぁと思ってしまう。せっかく優秀なロボットを作ったのにスペックダウンしてどうするんだよ、と。

 

・「生きる」ということ

「人生の意味は」「生きる目的は何か」みたいな話はいつの時代も人類普遍のテーマですね。けど、僕は「そんな明確な道標が無くたって生きていけるんだから良いんじゃね?」と思ってしまうタチなので、当然この歳になっても答えは見つけていません。

単に生物学的な話をすれば、生命体とは遺伝子の乗り物で、生きること自体が遺伝子からの命令であり、使命だと思っています。かと言って「人生は死ぬまでの暇つぶし」なんて冷めたことは考えたくない。知能を有した生命体として命を授かって、祖先が有史以来築き上げてきた文明の影響下に生まれ育ち、娯楽を存分に享受することが可能な時代を生きてるのだから、楽しみを見つけて過ごしたいですよね。

「自分の人生に価値を見出そうと足掻き続けること」

そのように、目的を探すこと自体が、生きる目的でも良いんじゃないでしょうか。この辺は伊藤計劃の著書「虐殺器官」や「屍者の帝国」なんかを読むとまた面白いと思います。

 

不気味の谷

人を模した絵画や人形の外見について、人に似る度合い(写実性)が高まるにつれ、それを見る人間が抱く好感度や親密度は上がっていくが、写実性がある精度まで達すると、それを見る人間は好感よりも嫌悪感を抱くようになる。手っ取り早く言うと、精巧なマネキンや喋るロボットを見て「気味が悪い」と思ってしまうあの感覚だ。

ロボット工学や芸術の分野に於いて、これを「不気味の谷」現象と呼ぶことがある(好感度グラフの突然の急降下を指して「谷」と表現している)。

ピノキオ役の加藤さんの演技(身のこなしや表情)は、この不気味さの根底にある「人間に似るように緻密な計算で導き出した『人工的に作られた滑らかさ』」を上手く表現していたように思う。

これまでに観た劇でもロボット役が登場したことはあったけど、ぎこちなかったり、反対に人間と全く同じであったり、あるいは、そもそも世界観としてそこまで追求されていなかったり、ということがほとんどだった。

そこに本当に博士の作ったピノキオが居るかのようだった。

 

・心の形

エレナがピノキオに「ハサミの刃先を相手に向けて持ってはいけない」と指導する場面があった。これに対しピノキオは「自分には何十もの高感度なセンサーと機構が備わっていて、万に一つも周囲の人に危害を与える心配はありません。ならば、使う時に持ち変えるのは非効率。合理的な考え方ではない」と反論する。

「そういうことではないの。それでも、もし何かがあったらどうするの?貴方は私を怖がらせたいの?」というエレナの説得に応じて、ピノキオはハサミの持ち方を変えた。

まぁー、これはエレナが少々強引だったし、ピノキオに理解させるには説明不足だったように思う。けど確かに「そういうことじゃない」っていうのも解る。人が完璧ではない以上、万が一は起こり得るし、何より相手に恐怖や不安を与えるだろう。ピノキオが人間らしさを学びたいのなら、避けては通れない道だ。

ただ思ったのは、ハサミを相手に向けないのは、単に危険回避のために編み出された「テクニック」であって、「思いやり」とか「人間らしさ」とは別のことなんだよなと。

例えば、幼少時に親から教えられた挨拶やマナー。学校の道徳の授業。「こういう場面ではこういう風に振る舞え」「人間らしさを身に付けなさい」と叩き込まれてきた。それは、人間の内から発するプリミティブな感情ではなくて、特定の思想による倫理観、プログラムされた行動パターンに過ぎない。

「思いやり」というのは、そういった数々のパターンの中から、相手の心情や状況を慮って、適切な行動を選び取ることなんだと思う。けど、その価値判断さえ、自分の経験や教えられたプログラムに影響を受ける。だとすれば、僕の中にある「人間らしさ」とは一体何であろうか?「心」とは、それらの価値判断を正当化させるための言い訳に過ぎないのではないだろうか。

そんな屁理屈が頭の中をぐるぐる。

 

・音色

高度な知能と運動能力を有するピノキオは、他人の行動を瞬時に記憶して真似ることができる。けど、エレナの真似をして鉄琴を叩いても、彼女のような綺麗な音色を出せなかった。「自分に真似できないはずがない」と動揺を隠せないピノキオ。エレナは「それで良いのよ。音が一人一人違うのは当然。それが人間らしさ。それが貴方の音なの」と彼をなだめる。勿論それだってインパクトの瞬間の強さを改めれば良いだけではあるのだが(テンポは合っているのだから)。

父は「お前には演奏プログラムが実装されてないからしょうがない。いずれ改良してやる」と取り合わなかった。結局ピノキオは練習を積み重ね、プログラムの力を借りずに独学で鉄琴の演奏をマスターする(後にこれが大きな意味を持つのだが、ここでは割愛)。

今度いくちゃん(乃木坂46生田絵梨花)が出演するミュージカル「四月は君の嘘」でも「譜面通りに演奏するのが正しいのか、感情を込めて自由に弾くのが正しいのか」みたいな話が出てくる。僕は芸術に疎いので、どちらが正しいのかなんて判るはずもない。けど、最近頻繁に舞台を観るようになって、「演奏でも演技でも、なんなら日常生活の会話や行動でも、ありとあらゆるアウトプットに、経験や人柄、その人の持ち合わせる様々なものが自然と顔を出してくる」ということは強く意識するようになった。

劇中で披露したピノキオの演奏もまた、ピノキオだけが発することができる、彼だけの音色だったはずだ。

音色とは心の色。...なのかな?(けして上手いこと言えてませんが)

 

 

と、そんなことをいろいろ考えさせられる、興味深い作品でした。

オチの無い感想でスミマセン。笑

 

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今回のタイトル「Shape of Things Human」は森博嗣さんの小説「人形式モナリザ」のサブタイトルから。