タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

アンビバレントな心を抱いて10月のプールに飛び込もう

映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」を観てきたので感想を...と思って9月の頭から書き始めたエントリーだけど、なかなか筆が進まずにいた。その内、脱稿するより前にLASTライブ配信を観ることになり、書いている途中で欅坂46に対する見方が変化してきた。変化というよりは、改名発表→ドキュメンタリー鑑賞の間に感じていた、自分でも明確にできなかった感情をようやく整理して文章化できた、というべきか。
そこで、書きかけの原稿を大幅に加筆修正して、映画の感想に留まらず、欅坂46をウォッチしてきた5年間の総括という形にした。映画の細かい感想は、また別の機会にまとめようと思う。
 
そういう経緯なので、初期の頃のイメージで書いたパートや、LASTライブを観た後に感じて書いたパートも、それぞれの時期での感想が混在していて、相当まとまりのない文章になっている。時系列はバラバラだし、自分で読んでも矛盾しているように思う箇所が結構ある。
けど、欅坂46に対する僕の想いは、複雑かつアンビバレントで、どれもその時々で感じた偽らざるものだ。だから敢えて、その揺らぎを訂正せずに残した。上書きしたい思考と、保存しておきたい感情との間に。
 

 

とにかくまずは「凄い映画だった」というのが率直な感想。
舞台挨拶上映会で高橋栄樹監督自身が語っていたのだけど、監督は当初、ライブ映像だけでドキュメンタリーを作れると思っていたそうだ。ライブ中の彼女たちの表情やパフォーマンスには、彼女たちの感情の移ろいが良く表れていたとのこと。
映画館の大スクリーンと大音響で感じるライブは音圧が目に見えるようで、現場さながらの迫力だった。そして何よりも、監督が語った通り、彼女たちの表情の変遷に引き込まれた。
7月の配信ライブを観た時も、そして今回のドキュメンタリーを観た時も、「もっと彼女たちの活動を真剣に見守っていれば良かった」という後悔が生じた。
 
欅坂46は、乃木坂46に続く坂道グループの第2弾として、2015年に結成された。

僕は「大好きな乃木坂ちゃんの妹グループだから」という至極シンプルな理由で、結成当初から彼女たちの活動を追っていた。ただ、どうしても、このグループをあまり好きになれなかった。理由はハッキリしていて、彼女たちの冠番組である「欅って、書けない?(けやかけ)」の内容や雰囲気が好みではなかったからだ。
正直、「乃木どこ」も当初はあまり面白くないと思いながら見ていたのだけど(これは前にもブログで書いた気がする)、MCを務めるバナナマンのことが以前から大好きだったという贔屓もあるし、番組の面白さを抜きに、楽しそうにしている乃木坂ちゃんの笑顔に何よりも癒されていたという事情がある。

その点、欅の番組はMC陣がそんなに好きではなかったし、彼女たちの表情があまり楽しそうなものには見えなかったのだ。勿論、単純に緊張もあっただろうし、デビュー曲である「サイレントマジョリティー」の世界観に引っ張られてしまったという推測も成り立つし、先輩グループである乃木坂とは違う雰囲気作りが必要だった可能性も否定できないので、表情の理由について云々文句を言うつもりはない。ただ少なくとも、あの頃の彼女たちが放つ雰囲気は、僕に癒しを与えてくれるものじゃなかった。

それに、世間的には評価が高いであろうサイレントマジョリティーも、僕の好みではなかった。理不尽な社会や大人に対して窮屈さや憤りを感じている若者には刺さる世界観なのだろうけど、大人の側になってしまった僕からすれば「まぁ、世の中そういうものだよね」としか言い様の無い歌詞だし、「大人たちに支配されるな」というメッセージ自体がその大人から発せられたものだと思うと興醒めしてしまい、どうしても世界観に没入できなかった。

 

改めて欅坂と乃木坂を比較した時に実感したのだけど、僕は、可愛らしい女の子たちが楽しく歌い踊る様子が大好きで、そんな可憐な彼女たちが時折見せる芯の強さに感動し、そんな強い彼女たちが「のほほん」と脱力している姿に癒しを感じているようだ。僕はそれを、アイドルという職業に求めているのだと再認識した(女の子を型に嵌めようというわけじゃなくて、単に僕がそういう雰囲気を好きなだけだ)。
だから、欅のように「強さ」や「格好良さ」を前面に押し出し、大人たちへの反抗のフラッグシップとして若者を率いるようなコンセプトに興味を惹かれなかった。乃木坂のように時間を掛けて自然に形成された雰囲気ではなくて、急ごしらえのハリボテ感が強かった(勿論それは僕の勝手な印象であって、あれを好意的に受け止めていた人たちを否定するつもりはない)。

 

そんな理由もあって、録り溜めしたけやかけを数ヶ月に一度まとめて観ることと、歌番組や情報番組に出演した時に流れる曲を聴く程度の、ライトなファンとして彼女たちの活動を眺めていた。

その心境に少し変化があったのは、けやかけが始まって1年ほどが経過した頃。3rdシングル「二人セゾン」の選抜発表回。
連続してセンターを務めることになった平手が、MCから指名されて締めの挨拶をすることになった。コメントの内容を正確には覚えていない。「今回もこのメンバーで頑張っていくので、また応援をお願いします」といった感じの無難な内容だったはずだ。ただ、明らかにセンターポジションを嫌がっていそうな怯えた表情だったにも関わらず、MCに指名された瞬間に顔つきが変わり、強い眼差しでカメラを見つめ、無難ながらもしっかりしたコメントを発する彼女に衝撃を受けた。
その1年前、結成直後に無邪気な笑顔でスタジオに登場して自己紹介をした、グループ最年少の少女の面影は微塵も無かった。

乃木坂の活動を見ていても感じることだけど、「立場が人を作る」というのは間違いない(東北の田舎で育った人見知りの少女が芸能界で力強く駆け上がっていった様を僕たちは目撃している)。2作連続でセンターを務めて、その重責や自負が平手を強くしたことは疑いようがない。だけど、その立ち居振る舞いに頼もしさを感じた反面、あの若さでいろいろなものを背負って急速に大人にならざるを得なかった彼女のことを想い、涙が止まらなくなった。子供は子供らしくて良いんだよと。改めて結成当初の平手の姿を見返して、胸が苦しくなった。ドキュメンタリーでも、初期には各種イベントの開始前に、舞台裏で慌てふためきながらも他のメンバーと笑顔で会話する平手の姿が何度となく映し出されていた。

彼女をそんな風に変えてしまった「力」の正体はいったい何であったのか。
周りの大人がもっと巧いことコントロールできなかったのかという不満もあるけど、プロデューサーやスタッフだけのせいにするのは、あまりに短絡だろう。あれ程の巨大ビジネスになった要因の一端は間違いなくファンの側にあるからだ。

また、ドキュメンタリーを観た時、周りのメンバーも彼女を追い詰めた要因の一つであるように感じた。複数のメンバーが、口々に「表現力や存在感が圧倒的」「平手がライブを欠席しても、代理のセンターを立てるのは反対」「彼女がセンターだから、その後ろで踊っていられる」と語った。「世界には愛しかない」のMV撮影時には、ソロパートを撮影する平手を眺めて、その表現力に衝撃を受けているメンバーたちの表情が印象的だった(涙を流すメンバーさえ居た)。そのような状態だったから、彼女がセンターを務めるしか道が無かったのだと思う。

とにかく、そういうことがあって欅坂の活動に注目したい気持ちが芽生えた反面、活動している彼女たち(主に平手を中心に)の表情を直視できずにいた。自らを「ヲタク」と呼べる程に、のめり込むことができなかった。

その後も「けやき坂46ひらがなけやき)」の活動と、それに関連した長濱の兼任騒動であったり、平手の怪我による活動休止だったり、何かしら波風が立つ度に、僕の中の不快な感情が渦を巻いた。平手の怪我を理由に、18年初頭の武道館ライブが全日ひらがな公演になった時は流石に不満が爆発した。一人欠けても補えるのがグループなんじゃないのかと。

ドキュメンタリーでは、実はこの時すでに平手がグループからの離脱を希望していて、それをメンバーにも伝えていたことが語られた。メンバー全員で必死に引き留めたという話だ。幸か不幸か、彼女はその説得を受け入れ、グループに残った。
武道館公演変更について、菅井が「一人も欠けることなく全員で武道館に立ちたいから」という説明をしていた記憶があるが、裏ではそんなことが起きていたなど、知る由もなかった。平手の怪我というのが本当なのか建前なのかは不明だけど、とにかく、休養を取っている彼女を置いて武道館ライブを決行すれば、きっと彼女は戻ってこないと察したんじゃないだろうか。石森が「みんな本当に仲が良くて、全員で手を繋いで崖を覗きこんでいる感じ。誰かが落ちたら全員落ちる」と表現していたけど、正にそういうギリギリの精神状態で踏ん張っていたのだろう。

これが直接の契機だったかは不明だけど、ドキュメンタリーでは、この頃から良くも悪くも平手頼みだったメンバーたちの意識が変化してきたように見えた。各人がライブの主役を務めようという姿勢が見え始めた。それでも平手との隔たりは大きく、彼女の存在の大きさを改めて実感して、ますます悩んでいるようだった。1stから2年間、平手一人が背負ってきたものの重さや苦しさをようやく知ったばかりなのだから、仕方ないこととも言える。思えば、これが彼女たちにとっての、本当のスタートだったのかも知れない。

 

これと前後した時期に、けやかけやKEYABINGOで、ひらがなけやきがピックアップされることが増えてきた。元は漢字欅のアンダーグループとして結成されたグループだ。アンダーにスポットが当たることに非難も聞こえてきたけど、彼女たちが番組に出ることは、何ら不自然なことではない。番組でポジティブに張り切る彼女たちを見て、少し笑顔になっている自分に気が付いた。
途中までは、異なる雰囲気を備えた選抜とアンダーという二分構造や、陽の当たらない場所で活動を続けるひらがなの処遇に歯痒さもあったけど、それは「一つのグループの選抜とアンダー」という見方をしていたからであって、「異なるグループ」だと考えたら少しだけ溜飲が下がった。

更に、ひらがな単独アルバムが発売されるに至り、漢字とひらがなは完全に別グループだという印象を持った。ひらがなは漢字に追いつき追い越せではなくて、別の道を探せば良いんじゃないか。そう考えるようになって大きな不満が一つ消えた。

 

ひらがなけやきが日向坂に改名してデビューするより少し前の時期に、欅坂には2期生が加入した。1期生に憧れて入ってきたと語るものの、クールな1期の先輩達とは少し異なった雰囲気を携えた彼女たちに興味を持つようになり、その頃から再び欅の活動を直視することに抵抗がなくなってきた。

そして19年春、3rdアニバーサリーライブ(アニラ)をライブビューイングで観て、以前に配信で観た1stアニラよりも格段に表現力の上がっている姿に感心した。加入して間もない2期生も必死に食らいついていて、立派に役割を果たしていたように思う。

秋口には9thシングルで選抜制が採用されることになり、若干モヤモヤを感じつつも、2期生がフロントに選ばれるなど、新しい風が吹き込んでくるのも感じていた。ちょうどその頃のライブツアーと東京ドームライブが盛況だったという声も聞こえた。ライブに参加した知り合いからも好評だった旨を聞き、自分も参加すれば良かったという、明るい意味での後悔もあった。

 

だけど、そんな矢先に9thシングル発売延期が発表され、さらに中心人物の平手がグループからの脱退を表明した。その後、コロナ禍の影響で、予定されていたドキュメンタリー映画の公開も延期され、一気にテンションが下がってしまった。
自分はこのまま欅坂に興味を向けることなくそこから離れてしまうだろうと思ったのだが、7月の配信ライブから、彼女たちに対する想いが急激に変動していくことになる。

平手脱退後の初となる配信ライブを観て僕が感じたことは「脱・平手」だった。これまでのライブを観た時は(大半がリアルタイムではなく後日映像だが)、やはり平手の存在感が頭一つ抜け出していたし、平手不在の時は、どことなく「代理で務めている」印象が拭えなかった。だけど、この時のライブは、彼女の代わりではなく、各人が自分の存在感を発揮し、全員で一つのライブを作り上げようという姿勢が感じられた(勿論、休養と脱退ではまったく事情が異なるので、その受け止め方の違いが形として表れていたのだろうと思う)。会場をフル活用した配信ライブならではの演出も相俟って、一体感が非常に強く感じられるライブだった。

「欅のライブは凄い」「ライブが一つの物語のようだ」

twitter等で散見されていた言葉を、初めて自分の感覚として実感できた。
これは今後も注目していきたいグループだと、自分の中の株が急上昇したのだが、終盤にキャプテン菅井から衝撃の言葉が発せられた。

「私たちは5年間の歴史に幕を閉じます」

あまりに唐突で事態を飲み込めずにいたら、続けざまに、解散ではなく改名だという説明があって胸を撫で下ろした。全く、ジェットコースター並みの情緒不安定さだ。

 

改名すると聞いて、その原因についての憶測が頭をよぎった。
単純に路線変更したかったとか、世間からの認知度の高いセンターが抜けたためにパブリックイメージを変えたいとか、メンバーの気持ちを切り替えるとか、日向坂の成功例にあやかりたいとか、卒業メンバーの素行に関する悪いイメージの払拭とか、いろいろあるはずだ。
単純に一つの理由であるはずがなく、おそらくだけど、どれもが少しずつ正解で、どれもが少しずつ不正解なのだろうと思った。
 
ドキュメンタリーで、守屋は当初「平手の為に踊りたい、平手以外の後ろでは踊りたくない」という発言をしていた。僕には、上昇志向の強い(ように見える)守屋がそのようなバックダンサー的な立場を肯定的に受け入れていたということが意外だった。
そして、彼女は19年のツアーの頃には、その意識が変わってきたことが自分でも驚きだったと語っている。実際、僕も、3rdアニラの時には各メンバーの存在感が増してグループとして成長しているように感じていた。

それだけに、「10月のプール」MV撮影を平手がボイコットした時の運営からの説明を聞き、平手不在では活動もままならないほど他のメンバーのモチベーションが低下していたと知って衝撃だった。確かに、平手が合流した東京ドームライブの映像では絶対的な存在感を放つ平手の下に強固に統率された「群」の姿があって、「やはり欅坂は平手ありきなのか」と思わせるに十分だったし、ドキュメンタリー冒頭で菅井は「最近はいろいろなものが機能していない」とも語っていた。3rdアニラで見せていた、あの頼もしく成長した姿は砂上の楼閣だったのかと、やるせない気持ちになった。7月の配信ライブのパフォーマンスへの感動も、残念な気持ちで上書きされてしまった。
メンバーによる撮影ボイコットという我儘を運営が許してしまうのか、という別の衝撃もあった(それを我儘と表現するのが適切かどうかはさておき)。
 
だから、LASTライブ当日までは「改名じゃなくて解散で良いんじゃないの」なんて考えるようになっていた。せめて、改名を機に全く違うグループの姿にイメージチェンジするぐらいのことは必要だろうと思っていた。
でも、良くも悪くも平手のモチベーションに引きずられてしまう彼女たちだけど、5年間積み重ねてきたものが身に付いていないことなど有り得ない。「それ」は着実に彼女たちの中に根付いているように見えた。結成からの約5年、彼女たちは表現者として腕を磨いてきたのだ(そうなることを望んでオーディションを受けたわけではないと思うけど)。ここで例えば日向坂のように可愛い路線にシフトしたら、これまで応援してきたファンが一気に離脱してしまう恐れがある(それでも良いのかも知れないけど、ビジネス的に許可が下りないだろう)。量産型アイドルになり下がったなんて非難されるかも知れない。
「この子たちは本当に、こういう格好良い路線が似合っているんだ。なら、この持ち味を消してしまうのは勿体ないじゃないか」
LASTライブを鑑賞中、そんな風に思い直した。
だからライブ終盤にサプライズ披露された櫻坂46としてのステージ「Nobody's fault」で、急な路線変更をせずに今までの雰囲気を継承していることに安心する自分が居た。強く生きろという、今までと同じくメッセージ性の強い曲。それでいて2期生の森田をセンターにしたことも、培った土壌を活かしつつ、今までの平手頼みの姿勢に決別する強い意志の表れのように映った。
その様子から、あの改名は「メンバーの気持ちを平手から解き放って、切り替えさせるため」というのが最大の理由なんだと推察した。
 
ドキュメンタリーの中で幻の9thシングル「10月のプールに飛び込んだ」MV撮影が紹介されたシーンで、その意志の萌芽は既に見え始めていたと思う。
後付けの推測ではあるけど、運営は、この9thシングルで緩やかにシフトチェンジを試みていたのだろう。センターこそ平手だったが、その両脇と後ろを2期生で囲むフォーメーション。MV撮影風景から伝わってきた楽しげな雰囲気。自由をテーマにしながらも、不協和音や黒い羊よりメッセージ色は薄めた歌詞。その「楽しげな作品世界に違和感があって馴染めない」というのがボイコットの理由だったのは、シフトチェンジが遅きに失したとしか言い様がないのだけど。
 
結局、この曲が日の目を見たのは予定より1年遅れて、今年9月に実施されたイオンカード会員限定の配信ライブだった。提携企業のCMで使用されていたけど、完全に披露されたのは、イオンカードライブとLASTライブしかない。カード会員ではない僕がこの曲をダンス込みで見られたのは、LASTライブが唯一の機会だ。でも、そのたった一度で、僕はすっかり心を掴まれてしまった。
「不協和音」や「ガラスを割れ」のように自由や自立をテーマにしている歌詞だけど、それらのように周囲との闘争や孤独を歌ったものではない。主人公の「僕」は自分の意思決定を重視しながらも、他者との関係を断ち切ってはいない。「他人は他人、自分は自分」という考え方は、必ずしも外界との断絶を意味しない。むしろ他者への尊重と、確立された自己が在って、より高次元に達する価値観だ。社会のトレンドで言うところの「多様性を認める」ということにも通じる。
その根底には「二人セゾン」や「世界には愛しかない」にも感じた、受容や共存といった精神が見え隠れする(偶然だろうけど、どちらの曲も、平手と他のメンバーとの間に溝が生じ始めた不協和音より前のリリースだ)。
また、場面描写や身体感覚が具体的で、情景をイメージし易かった。どこまでも抜けるような秋の青空と、それを反射して青く映える清涼な水を湛えたプールの様子が目に浮かんでくる。明るい将来だけを夢見て、ただひたすらに全力で真っ直ぐ走っていた青春時代が蘇り、胸が熱くなる。そんな眩しい青春ストーリーが想起された。
 
この曲に合わせて優しく楽しげな笑みを浮かべ、溌溂と踊る彼女たちを見て「強く格好良いだけではない、こんな表現もできるのか」と感動した。あのドキュメンタリーを観た後だけに、その想いは一際強いものだった。
平手が居たはずの幻のバージョンがどのようなものになったかは、もう我々ファンには知ることができない。ただ、僕はこの時、このメンバー構成で、この曲を聴けたことが本当に良かったと思っている。平手一人が参加を拒否しただけで総崩れを起こしそうな程に危うい状態だったのなら、仮に彼女が参加していたとしても、遅かれ早かれ崩壊は始まったはずだ。その状況から良くぞ、これ程のステージを魅せられるまでに持ち直したと思う。
 
確かに平手の脱退は勿体なかったと思う。ドーム公演でも見せたように、彼女が居れば、表現に厚みや迫力を持たせられただろう。
だけど、演出家から「平手が居なかったら何もできない」と発破をかけられた弱いメンバーはもう居ない。「平手が居ることの強み」が在る反面、「平手が居なくなったからこそ出せた強さ」というものが絶対に在る。彼女たちは平手不在でも出来る、別の表現方法を、別の道を見つけたのだと思う。それは、挫折を味わったからこそ見つけられた道で、彼女たちが戦い続けてきた、成長の証だ。
平手だけでなく、多くのメンバーがグループを離れていった。その居なくなったメンバーたちと過ごした時間も含め、5年間の集大成が見事な形になったものを、このLASTライブの中に見た。苦しみや悲しみさえもバネに変えて、残された彼女たちは現時点で到達し得る最高点に立ったのだと。
 
改名発表時、菅井は「これから茨の道が待っている」と語った。
だけど、あのLASTライブを見るにつけ、彼女たちの未来は明るいと確信した。彼女たちは、己の積み重ねてきたものを信じて、思うがままに振る舞えば良い。
10月のプールに飛び込んだ、あの少年みたいに。
 
僕もまた、複雑な想いから欅坂46を素直に応援できずにいた。周りには純粋に欅を応援している子たちも多かったから、こんな捻くれた人間がファンを名乗って良いのだろうかという躊躇いも強かった。
だけど、誰に臆することなく、もっとシンプルに、己の気持ちに素直になって、彼女たちの活動を見守りたい、応援したいという気持ちが勝るようになった。欅坂46の5年間の歩みに感謝するとともに、これから櫻坂46の活動を応援していこうと思っている。