タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

重力の里

久々の投稿。

少し前のことですが、乃木坂46筒井あやめちゃんが主演を務める舞台「目頭を押さえた」を観てきたので、その感想や諸々を書こうかなと思います。

 

(念のため、あらすじ紹介)

主人公の杉山遼(筒井)は高校3年生。8年前に母を亡くした後、父と2人で母の実家・中谷家がある人見村という林業中心の閑村に引っ越してきた。父の馨は葬儀コンサルタントをしていて、古いしきたりが残る村の住民からは快く思われていない。

遼は「遺影に収める」という名目で村人のポートレートを撮影するのが趣味で、村人からの評判も良い。同い年で大の仲良しの従姉妹・修子(秋田汐梨・W主演)をモデルに据えた作品がコンクールで最優秀作品となり、才能を公に認められ始める。

これをきっかけに、写真部顧問の坂本先生から、東京の大学への進学を勧められるが、都会に出ていくことを反対する父親との溝が深まっていく。その頃、修子は進学を視野に入れて家庭教師を招き入れる。遼と、大人の魅力を持つ家庭教師・藤城に感化されて都会への進学も考えるが、密かに憧れを抱く坂本先生が遼ばかりを気に掛けることが引っ掛かり、彼女に対して距離を置くようになる。

そんな時に杉山家・中谷家、そして人見村を騒がす事件が起こる。

(ここまで)

 

その事件や顛末についても後で触れるけど、ひとまず。

まずは、筒井ちゃんの演技が良かったという点。脚本ありきの作品なので、当て書きのキャスティングではなかったはず。だけど、彼女が元来持ち合わせている、柔らかく悠然とした雰囲気と時々見え隠れする芯の強さが、控えめな性格ながら村人から愛される遼の役柄に非常にマッチしていた。インタビューで「自分の父親とケンカしたことが無いので遼の気持ちが解らなかった」というようなことを話していた。自分の中に無い感情を表現するというのは、ほとんど演技経験の無かった若い彼女には相当難しかったはず。特筆するほど巧みな演技というわけではなかったけど、役柄に対して、とても思慮深く、丁寧に気持ちを添わせているように見受けられました。

また、ダブル主演の秋田汐梨さんも素晴らしかった。幾つかのテレビドラマで拝見したことはあって、この春高校を卒業したばかりという若さに反する大人っぽさと演技力に興味を惹かれていたのですが、舞台初挑戦には見えない溌剌で堂々とした演技と、スタイルの良さに肝を抜かれました。

 

さて。

物語は2人の従姉妹の仲の良さや、遼が村人から可愛がられている様を描き出すところから始まった(最初、とある理由から重めの雰囲気で始まるのだが、それはすぐに払拭された)。広い庭に面していて、大きな窓を開け放した居間。いかにも昭和の香り漂う家庭。修子の弟の一平は別室に籠ってゲームばかりしていたけど、時々には居間を通っていたようだし、家族たちも特別に手を焼いている風ではなかった(あの程度の内向性は、思春期の男子には珍しいことではない)。親戚や客も勝手に出入りする、風通しの良さそうな家だなと思った。

しかし、彼女が写真の現像部屋として中谷家の離れ小屋を使いたいと希望したことで、重苦しい雰囲気が漂い始める。

その離れは「喪屋(もや)」と呼ばれ、村で死亡した人を一晩安置するための「穢れ」とされる場所だった。でも今は、一平が引き籠ってゲームをするために占領している。それに、穢れといったところで、大都市部の不特定多数の他人ではなく、小さな村内のことである。特に問題はないだろう。実は、遼の母も学生時代には喪屋を勉強部屋として使用していた。遼も修子もそれを知っていたからこその申し出だった。

しかし叔父(修子の父親)・元の返事は芳しくない。

「お母さんも使っていたから大丈夫です」

「でもあいつは死んだ」

「一平がゲームするのは良くて、なんで遼はダメなの」

「一平は長男だからだ」

返ってくるのは、理屈の通らない理不尽で受け入れ難い言葉ばかりだった。村人との関係がこじれるのを恐れてか、馨は娘の為であっても元に対して強く頼むことができない。それでも結局は遼の熱意に押される形で、元は遼が喪屋を現像部屋として使うことを認める。

 

それはそれで「良かったね」という話ではあるが、やはり元や大人たちの反応は釈然としない。

僕自身、今時には珍しく、隣組や親戚の寄り合いというものが根強く残る土地・家柄で育ったので、そういう空気は肌で知っている。とりわけ、「長男だから」は大抵の理不尽をバイパスする呪いの言葉だ。物心つく前から「お前は長男なんだから」と刷り込まれ、冠婚葬祭や親戚付き合いのしきたりを叩きこまれた。長男ゆえに優遇されたこともあるにはあるけど、長男ゆえの面倒事の方が遥かに多かった(とは言え、少子化で長男の方が多い時代になってしまったから、この呪いは僕らの世代で消滅してくれるだろうと思っている)。

いつしか自分にとって当たり前のように受け入れてしまったことでも、傍目には「なんでそんなことしなくちゃいけないの?」という点も多々あるのだろうなと思う。

そういえば結婚してすぐ、法事に奥さんを連れていった時、焼香の順序や席次(言ってみれば親戚内の力関係そのもの)のルールが全然判らないと愚痴られたことがあった。自分からすれば「1+1=2」と同じレベルに当然のロジックだったので、逆に衝撃を受けた記憶がある。

 

話が逸れた。

 

しきたりというのは、既に「そういうもの」として、そこに存在している。起源が明確なものもあれば、そうでないものもあるけど、どちらにせよ本来のそれは、そこに関わる人達の生活を円滑にするためのものだったはずだ。あるいは、利益を生み出すためとか。例えば葬儀というのは、死者の為だけでなく、遺族の為の行事でもある(個人的には後者の意味の方が強いと思っている)。また例えば各地の漁協や農協は、相互監視システムじゃなくて、助け合いと長期利益確保の為に発足したはずだ。

それなのに、いつしか本来の意義が失われ、形骸化した枠組みだけが残り、そこに関わる人達を縛り付けるようになる。そしてそのシステムに囲われて育った人間は、本来の意義も忘れたまま、そのシステムを維持することに固執するようになる。時間の経過した組織・仕組みの常なんだろうな。

物語に登場する大人たちは、口を揃えて「決まりだから」と言う。適切な理由なんて思いつかないのに。彼ら大人にも、かつて子供だった時代があった筈だ。そして当時の大人たちの振りかざす理不尽に反発し、戦っていた筈だ。

それなのに。どうして、あんなにも重く、硬くなってしまうのだろうか。

 

その後、遼が東京の大学に進学したいという気持ちを父親に打ち明けるが、受け入れてもらえなかった。

「東京に行かなくたって写真の勉強はできるじゃないか」

「コンクールで賞を獲ったぐらいで調子に乗るんじゃない」

「それで失敗したらどうするんだ」

「もっと時間を掛けてしっかり将来の事を考えなさい」

ステレオタイプの説教ばかりで反論するまでもないからそれは割愛)

遼の意志は固く、温厚な彼女も怒り(あるいは悲しみか)を露わにして口論になることさえあった。しかし馨は頑として譲らない。そのうちには激昂して狂乱気味に娘に迫ってくるようになる。

馨の精神状態は、既に相当危うい状態にあったのだろうね。早くに妻を亡くし、幼い娘を一人で育てなければいけない不安。妻の一族の傍らで暮らすプレッシャー。慣れない土地の暮らしと、村人から向けられる忌避的感情。

その状況に加え、村人や中谷家との重要にして唯一の接点である娘の遼が居なくなることで、自分の居場所がなくなるかもしれないと考えて、恐怖さえ感じていただろう。馨にとって遼は異界から自分を守る「壁」であり、自分と異界とを繋ぐ「窓」だったと思う。単に「娘が一人暮らしを始めるために家を出る」という以上に重い意味を持つ出来事だったに違いない。

だが、それでも親が子の羽根を切り落として良い理由にはならない。結局のところ、馨の根底にあったのは保身だ。「娘の為」と言いながら、彼は自分自身の事しか考えていなかった。

子の世話をすることでしか、自身の価値を見出せない親

子に怒りをぶつけることでしか、ストレスを発散できない親

子に頼られることでしか、喜びを感じない親

子を束縛することでしか、自身の尊厳を実感できない親

子の将来にしか、夢を見られない親

こういうのが所謂「毒親」というやつなのだろうか。それを理解できない僕は、たぶん幸運に違いない。

子と離れるだけじゃなくて、一緒に人見村を出る選択肢だってあったはずだ。(劇中で描かれなかっただけなのか、本当にそれを考えなかったのかは不明だけど)そういう思考のプロセスを娘に示さずに頭ごなしに意志を否定するだけの行為に、真に愛はあっただろうか。

最終的に遼は親元を離れて東京の学校に行くことになるのだが、馨の本当の胸の内は判らないままだった。全てを受け入れて覚悟を決めたのか、単に諦めただけなのか。果たして。

 

それと前後して、幼い頃から常に一緒だった遼と修子の関係に変化が見え始める。修子が坂本先生に想いを寄せていることが原因だった。遼と坂本が2人きりで喪屋に居るところ(おそらく遼が坂本に泣きついていたであろうことと、それ以上の関係には踏み込んでいなかったことが示唆されている)を目撃してしまった修子は、遼に対して心を閉ざす。

この場面、学生時代に親友と同じ女の子を好きになって争い、結局僕がフラれて、暗く辛い青春を送ることになったトラウマが蘇ってきて、かなり修子に感情移入してしまった。

 

またしても話が逸れた。

 

遼と坂本が2人きりで喪屋に居たことが問題となり、写真部の活動や進学にやや暗雲が漂う。そんな折、元が枝打ちの最中に落下事故で亡くなってしまい、中谷家や村に衝撃が走る。

村のしきたりに従い、馨は元の遺体を喪屋に運び込む。跡継ぎが死者を送る儀式をしなければいけないからだ。その儀式とは、遺体の「目頭を押さえる」こと。木から落ちた衝撃で飛び出した目玉を戻して目を塞ぐ、という処置から始まった伝統だった。

馨は、動揺と恐怖で怯えて泣き叫ぶ一平を無理矢理喪屋に連れ込み、力ずくで目頭を押さえさせた。この物語を象徴するような、理不尽の極みとも呼べる痛ましい描写だった(この時、元の妻が馨に「貴方に村の作法で葬儀ができるの?」と高圧的に訊ねる場面があったが、これもまたある意味で、理不尽の結晶のように見えた)。

 

この一件を境にして(デウスエクスマキナのようでもあるけど)、ゲームにしか興味を示さなかった一平は人当たりが良くなり、修子は若干の気まずさを残しつつも遼と和解する。そして馨は東京に出ていくことになった遼を見送る。

事故が転機となって、各自の価値観が変わったのだと思う。拘りを捨てたり、新しく大切なものが生まれたり、見えていなかった他人の想いに気付いたり。そういった価値観の変遷というのは長い人生の中で何度も経験していく。ありきたりな言い方をするなら、一平や修子は少し大人になったのだろう。馨についても、もしかしたら元が亡くなったことで、林業組合を筆頭とする村人との関係に変化があったのかも知れない。

だけど、あの事件が彼らの人生において本当に必要な試練だったかと言えば、果たして疑問である。人は辛い経験でしか成長できないわけではないのだから。成長と引き換えに心に穴が開いたままなんて、哀しすぎる。

 

と、あらすじと一緒に場面ごとの感想を綴ってきたらだいぶ長くなってしまった。

 

全編を通して、人の魂を縛りつける重力のような存在をずっと感じていた。

地べたにへばりついて、自らを、そして身近な人々の魂を縛ろうとする、見えない何かの連鎖。魂を引き寄せ合う力というのは、おそらく多くの人がその必要性を感じて希求する力で、けしてネガティブなものではないと思うのだけど。

質量の大きいものが強い引力を持つように、人が多く集まると心を引きずり込まれて離してもらえなくなるのだろうか。人や組織は時間を経ると、魂に贅肉がついて重力に抗えなくなって、飛び立つ力を失くしてしまうのだろうか。

そんなことを考えさせられた作品でした。