タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

Love is...

ずっと前、学生時代に友人たちと「恋」について延々と語り合った事をふと思い出した。
細かい内容やその時の心情は曖昧にだけど、その事実だけを明確に。

「やっぱ恋って○○だよね」「カノジョほしーーー」「お前はエロいことしか考えてないじゃん。恋ってもっと純粋だから」「好きってどういうこと?」「どこからが浮気?」「カノジョ以外と食事とかアウトでしょ」「手ぇ繋ぐぐらい良くね?」「付き合ってその先どうするの?」「結婚とか将来とか考えたくない」「相手も居ないのに結婚とかアホじゃん」「恋って何?」

仲間の冷めた視線など気にせず、各々が勝手に考える恋愛観や好きな子への思いを、ただひたすらに。飽きもせずに毎度毎度同じ話題を、安酒を飲みながら朝まで延々と繰り返して、そして結論なんか出るわけもなく、毎度毎度「恋って良いよね」「恋してぇな」と、愚にもつかない落とし所とともに宴がお開きになった記憶だけは残っている。

 

ーーーーーーーーキリトリセンーーーーーーーー

 

「恋って何?」

考えたらキリが無いなと思う。
だって、恋はComplex=複雑に絡み合っていて、感情の揺らぎがストレートに表出するものではないから。
楽しい時や嬉しい時、大抵の人は明るい表情になる。悲しい時や辛い時、大抵の人は暗い顔になる。でも、恋は喜怒哀楽のどれでもあるし、どれでもない。だから一口に「恋してる」と言ったって、内心でどのような感情を抱いているのか、周りには判らない。本人にだって判らないかも知れない。

 

そもそも、言葉の定義からして曖昧だ。

特定の誰かを思い浮かべた時に、その相手を求める気持ちや胸の高鳴りや苦しさを、最初に誰かが言語化して、他の誰かも自分と似たような気持ちを抱いていることを知り、お互いの共通認識として、そのようなボンヤリとした思いを「恋」と呼んだ。
元々は、ただそれだけのことなのだと思う。

実際のところ、誰かが誰かを思った時の胸の内の燻りって、人それぞれ全く違うと思うんだよね。要因も強さも方向性も、そして、その表し方も。それらを全て同じ「恋」として定義するのは少々乱暴なんじゃなかろうか。
(だからこそ僕は、友人たちと飽きもせず毎日のようにお互いの思想をぶつけ合っていたわけで)

 

「恋らしき感情」の表層部分の揺らぎだけを言葉として掬い取れば、「恋」は何でもありになる。
「恋とは○○である」と内容を明確に限定すれば、自分が恋だと思っていた感情は実は恋ではなかったのかも知れない...となる。

 

恋をするのは面倒だし、恋とは何かを考えるのもまた面倒だ。

今回観た映画「恋は光」は、そんな「恋って何?」という、非常に面倒な命題に真正面から向き合っている。

happinet-phantom.com

主人公は「恋をしている人が光って見える」という特殊能力を備えた大学生の男の子・西条。
そして、その主人公と関わりを持つ3人のヒロイン。
-西条と幼馴染で、西条から「恋の光が見えない」と言われてしまう女の子・北代
-「恋の定義」について思案し、そのことで西条と意気投合する女の子・東雲
-他人の恋人を奪うことに喜びを感じ、西条に執着する女の子・宿木

 

あらすじ紹介にもある通り、「恋の定義とは?」という議論が物語の中心になる。
時にロジカルに、時にエモーショナルに、恋の定義について彼らは語り合う。

 

なぜか人は他人にも共感を強要して、自分の考える「恋」と他人の考える「恋」が根本では同じものだと思いたがる。だけど彼らは、考えの擦り合わせを図りつつも結論を急がず、かつ曖昧なまま対話を終わらせたりもしない。その言語化できない情動をどうにかして体系化・言語化しようと思案して葛藤して、そしてまた対話しながら思案を繰り返す。ロジックとエモーションという対極の両方を含んでいて、それでいてどちらでもないような、不思議な感覚の正体を探し続ける。

若い
甘い
青い
淡い
苦い
鋭い
脆い

そんな剥き出しの心がぶつかり合い、混ざり合い、愛し合おうとする。

 

僕が曖昧にしたまま投げ出してしまった、あの頃の問いの答え合わせを見ているようで、眩しくて切なくて、そして愛おしい気持ちで胸がいっぱいになった。

恋の楽しさに浸る人にも、恋に悩み惑う人にも、恋を諦めた人にも、ぜひ観て欲しい。
「恋って良いな」と素直に思える、素敵な物語でした。

 

#西野七瀬

乃木坂46、29thシングル選抜発表についての雑感

うーん、そっかぁ、五期生かぁ...って感じ。

いや、そこに入る子のポテンシャルを疑ってるわけじゃなくて、やり方そのものに不安というか不信がね。
どうしても7thの時の堀ちゃんを思い出してしまう。
あれは本当にただの話題作りって感じで、メンバーもファンも得しないクソサプライズだったので。
 
ただあの時は全てが初めてのことでメンバーも運営も手探りだったけど、今はあれを経験した一期や二期が居てのことなので、互いのケアは出来るのかな?
五期の売り出し方を見ても、孤立させないようにする運営の姿勢は見えるし。
 
選抜の人選については毎度のことだけど、僕は誰が選ばれても嬉しいし誰が選ばれなくても悲しいので、何とも言い表し難い。
それ言い出しちゃうと選抜・アンダーって方法がね...。大人数Gゆえに仕方ないと言ってしまえばそれまでだし、ベターな方法も思いつかないのだけど。
 
活動領域が広がってアンダーの子も個人での活躍の場は与えられてるけど、グループとしての活動っていうとテレビ(歌番組や乃木中)への出演がメインだから、やっぱりメディア露出の面で大きな差があるのは疑いようがない。
乃木坂に当たるスポットライトが強くなればなるほど、そこが浮き彫りになってくる。光が強くなればなるほど影も濃くなるわけで。
選抜に入れなかった子たちにも、もっとグループとしてファンや一般層の前に露出する機会を与えて欲しいなと思う。
 
そこにまつわるメンバー自身の葛藤は、各所で語られる彼女たちの言葉(ポジションに拘らなくなったとか、前に立つ子の背中を支えたいとか)を聞く限り、強い気持ちで乗り越えられるようになったんだなとは思う。
でもグループとしての成熟度が上がってそういった考え方が浸透していったとしても、個人の悩みがなくなるわけじゃないし。
一期の活動時期に当て嵌めて考えれば
三期→インフルエンサー歌ってた頃
四期→命は美しい歌ってた頃
に相当してて、あの頃の先輩たちは絶賛葛藤中だったことを思えばお察し。
 
特に、先輩の卒業ラッシュを経て緩やかにバトンパスが行われつつある今の状況で、急いで五期を入れなきゃいけない理由は無さそうなものだけど。後輩を育てるのが急務だった時期はもう過ぎて落ち着いてると思ってたので。
それとも、次の卒業ラッシュが控えているのか...。それは考えたくないねぇ。
 
なので、とにかく今回のは驚きというか何というか。
グループ全体としていろいろな変動や葛藤を経験して、本当に大きな括りでいうところの「2ndシーズン」が始まったのかなという印象です。
 
ちょっと否定的な含みで書き始めたし、いろいろゴチャゴチャと考えてしまうところはあるけど、これからの姿に期待してワクワクしているのは本心です。
先輩たちが愛して信頼する後輩に乃木坂46を託していったのだから、彼女たちの未来は明るいと信じています。
 
追伸:
「センターは後日46時間TVで発表」っての笑ってしまった。
選抜発表で選抜発表しないって新しすぎるでしょ。w

Against All GRAVITY

乃木坂46中村麗乃ちゃんの出演する舞台「October Sky -遠い空の向こうに-」を観てきました。とても印象深い劇だったので、感想を書き残しておこうと思います。

感想というよりは主にあらすじを書き連ねていくことになるけど、これは僕の本作品への感想を述べるために必要なステップなので、承知していただきたい。

 

作品の主人公、ホーマー・ヒッカムは実在するNASAの技術者。
世界初の人工衛星ソ連スプートニク1号が宇宙に飛び立った1957年、アメリカの炭鉱の町で育った高校生のホーマーが宇宙に憧れを抱き、同級生と共にロケット作りに励んだという自伝小説を基にしたミュージカルだ。
若者の夢や挫折や恋を描いていて、わりとステレオタイプな進行ではあるけど、時代や洋の東西を問わない普遍的なテーマを感じました。

 

ホーマーの育った町は炭鉱の町で、住民の生活や経済は、この炭鉱の産業を中心に回っている。彼らは余程の才能や運を持っていない限り、大人になったら、炭鉱で働き、そしてこの町に骨を埋めることが、暗黙の了解として描かれている。ホーマーの兄は地元で有名な学生フットボールの注目選手で、奨学金を得て大学に進むことが決まる。一方のホーマーは平均的な学生で、炭鉱会社で重要なポストを務める父から、学校を卒業したら父の後を継ぐことを嘱望されている。
筒井あやめちゃんが主演を務めた「目頭を押さえた」を観た時に感じた閉塞感と同じ圧を、ここでも感じた。

ある夜、ホーマーは星空を横切るスプートニクの輝きを見た。そして、ラジオでスプートニクからの電波による無機質な信号音を聞き、見果てぬ世界の広がりと宇宙の波動を感じて、自分も手作りロケットで宇宙を目指したいと考え始めた。

最初は、筒に火薬を詰めてオモチャの飛行機の羽根を取り付けただけの粗末な、粗末どころではない、そこいらに市販されている打ち上げ花火の方がマシだと思えるような出来のロケットだった。当然テストは失敗して、自宅の庭の柵を吹き飛ばし、ホーマーは笑い者になる。
それでも彼はめげなかった。学友を仲間に引き込み、ますますロケット作りに没頭していく。教育熱心なライリー先生の真っ直ぐな声援や、炭鉱技術者のバイコフスキーの助力を得て、彼らのロケットは精度を上げていき、学生の全米科学コンテストにエントリーされるまでになっていく。最初は彼らを馬鹿にしていた町の人々も、徐々に熱が伝播して、ホーマー達「ロケットボーイズ」を応援し始める。ロケットが徐々に飛距離を伸ばしていく様は、そのロケットが人の心を推力としているのかと思う程だった。

 

そんな中、ホーマーを応援してくれない人物が二人。

 

一人は父親のジョン。息子のロケット作りを子供の遊びだと一笑に付し、炭鉱会社で働く準備をしろと迫り、ホーマーとの対立を強めていく。母親のエルシーは、息子の夢を応援しながらも、この町の産業や家族の生活を支える夫の正しさを理解しているからこそ、二人の板挟みに心を痛めている。

そしてもう一人は、ガールフレンドのドロシー(麗乃)。ドロシーはホーマーへの想いを歌い上げる。

「この町であなたに恋をした それだけで良いわ」

彼女はホーマーの事を応援したい反面、彼が自分の知らない遠いどこかへ飛び立っていってしまうのでは、という不安に駆られていた。

だいたい昔から、男は狩り場を求めて世界を外へ広げて行って、女は安定を求めて世界を整え固めてきたように思われる。それはどちらが正しいとか優れているとかではなく、それぞれの立場に於いて、理があって、譲れない理想があったはずだ。でも、そうやってお互いの理想が噛み合わなかった時、どうするべきであろうか。若い二人には答えが出せず、ただ惹かれ合う恋心だけがあった。

 

着実に進歩してきたロケット作りだったが、ある時、たった一回の失敗が原因でジョンをはじめとする炭鉱会社の怒りに触れ、ホーマーはロケットボーイズから脱退させられてしまう。
加えて、炭坑で事故が発生し、ロケット作りを手助けしてくれていたバイコフスキーが命を落とす。さらにジョンも重傷を負い、ホーマーは父の代わりに炭鉱で働くことを余儀なくされる。

 

ロケット作りへの未練を残しながらも炭鉱で働くホーマーだったが、そんな彼をロケット作りに引き戻し、背中を叩いてくれたのは三人の女性だった。

一人は母・エルシー。密かに貯めた金があり、息子を大学に行かせるためなら、夫と別れることも辞さないという。

もう一人は病気で療養していたライリー先生。夢を追うことの大切さを説いて、心に響く詩を与えてくれた。

そしてもう一人はドロシー。愛する男が自分の元に留まるよりも、自身の夢を追い掛けてくれることを選んだ。

「この町からあなた飛び立つの それは素敵なこと」

この時、麗乃ちゃんとドロシーの形が完全に重なり、彼女自身の恋心や芯の強さを歌い上げているような感覚に包まれました。また、乃木坂46というグループから離れて単独で舞台に臨む彼女の立場は、この物語のテーマにも通じるものであると感じ、涙が溢れてきました。

 

そうしてホーマーはロケットボーイズの元に戻り、最終的に彼らの研究はコンテストで優勝を飾る。また、父ジョンとも和解し、ロケットボーイズの最新試作機はホーマーの提案で、ジョンの打ち上げ合図によって空高く舞い上がり、物語は幕を閉じた。

 

さて、ここまで書いてみて改めて本作品で感じたテーマは、
「心を縛る力と、そこからの解放」
です(前置きが長くてゴメンナサイ)。

 

多数の男が炭鉱に潜って泥臭く働く姿は、もちろん労働や身近な人の為に尽くすことの尊さの一面ではあるけど、同時に、枷に縛られ、永遠に地の底を這い回る虜囚のようでもある。まして、自らが縛られるだけでなく、他の誰かをも縛ろうとするなら、それは完全に呪いの類だ。

「目頭を押さえた」の感想でも述べたことだけど、人の心を縛りつける見えない力というのは確かに存在している。

ガンダムのように地球の重力が人の魂を引きずり込むとまでは言わないけど、重力というのは、見えざる力が、誰にとっても非常に分かり易く具体化されたものだと思う。炭鉱という穴倉もまた、人を地べたに押さえつけて一つの場所に閉じ込めようとする力を連想させる要素だ。

 

とは言え、父やドロシーがホーマーを引き留めようとした想いは、それほどネガティブなものではなかったと思う。大切な相手に健やかに過ごして欲しいとか、ささやかながら安定を望む気持ちだとか、ほんの少し「安全寄り」なベクトルが、いつの間にか完全にホーマーと逆向きになってしまったに過ぎない。
人を縛りつける力の源のほとんどは、そういった、持続や安定を希求する願いだったはずだ。でも、だからこそ、理想に向かって飛び立ったとしても、ほんの僅かな緩みや弱気によって、簡単に推力を失って地面に引き戻されてしまう。それどころか、周囲の人間までも一緒に地に引きずり下ろしてしまう。人が内在的な重力の枷から逃れるのは、容易いことではないのだ。

 

翻って、地球の重力圏からの脱出というのは、そのような見えざる力からの解放の、一つの到達点、理想の具現化なのだと思う。重力の枷を切り裂き、光り輝く糸を引いて天に昇っていく彼らのロケットを見て、そんなことを考えました。

 

重力の概念に気付くよりも前から、大地の形を知るよりも前から、人は空の高みを目指してきたはず。この身体を地に縛る枷を切って、自由に空を飛びまわることを夢見ていたはずだ。

鳥のように。虫のように。太陽のように。あるいは神のように。

人間には空を飛ぶ機能は備わっていないけど、その反面、空を舞うことへの憧憬が遺伝子レベルで刻まれているのではないか。それは世界各地の神話・伝承や、霊魂が空に昇るといった迷信にも表れている。

宇宙までの距離は、たった百㎞。東京~静岡間より短い。その百倍以上の距離にある地球の裏側さえ気軽に行き来するようになった現代でも、宇宙に行くには遥かに大きな困難がある。数千年前も今も、人は同じ壁に阻まれ続けて、同じ夢を見続けている。それは、人類の社会や精神構造が、数千年の間ずっと停滞していることの表れではないか。

勿論、当然だけど「心を縛りつける力」と「実際の重力」に相関関係があるとは思っていない。だけど、これらの力には共通する部分が多く、相似なのだと思う。この考えはわりと譲れないし、至る所で意識させられる今日この頃。

だから、もしも地球の重力を簡単に振り切る術を手にしたなら、その時、人は一段高みに上って、自分達を縛りつける力からも解放されるんじゃないだろうか。と、そんな気がしている。

 

余談:
タイトルの
OCTOBER SKY って、
ROCKET BOYS のアナグラムだったんですね。

 

なお、このエントリーのタイトル「Against All GRAVITY」は2年前に観に行ったミスチルのライブツアーのタイトルから。

重力の里

久々の投稿。

少し前のことですが、乃木坂46筒井あやめちゃんが主演を務める舞台「目頭を押さえた」を観てきたので、その感想や諸々を書こうかなと思います。

 

(念のため、あらすじ紹介)

主人公の杉山遼(筒井)は高校3年生。8年前に母を亡くした後、父と2人で母の実家・中谷家がある人見村という林業中心の閑村に引っ越してきた。父の馨は葬儀コンサルタントをしていて、古いしきたりが残る村の住民からは快く思われていない。

遼は「遺影に収める」という名目で村人のポートレートを撮影するのが趣味で、村人からの評判も良い。同い年で大の仲良しの従姉妹・修子(秋田汐梨・W主演)をモデルに据えた作品がコンクールで最優秀作品となり、才能を公に認められ始める。

これをきっかけに、写真部顧問の坂本先生から、東京の大学への進学を勧められるが、都会に出ていくことを反対する父親との溝が深まっていく。その頃、修子は進学を視野に入れて家庭教師を招き入れる。遼と、大人の魅力を持つ家庭教師・藤城に感化されて都会への進学も考えるが、密かに憧れを抱く坂本先生が遼ばかりを気に掛けることが引っ掛かり、彼女に対して距離を置くようになる。

そんな時に杉山家・中谷家、そして人見村を騒がす事件が起こる。

(ここまで)

 

その事件や顛末についても後で触れるけど、ひとまず。

まずは、筒井ちゃんの演技が良かったという点。脚本ありきの作品なので、当て書きのキャスティングではなかったはず。だけど、彼女が元来持ち合わせている、柔らかく悠然とした雰囲気と時々見え隠れする芯の強さが、控えめな性格ながら村人から愛される遼の役柄に非常にマッチしていた。インタビューで「自分の父親とケンカしたことが無いので遼の気持ちが解らなかった」というようなことを話していた。自分の中に無い感情を表現するというのは、ほとんど演技経験の無かった若い彼女には相当難しかったはず。特筆するほど巧みな演技というわけではなかったけど、役柄に対して、とても思慮深く、丁寧に気持ちを添わせているように見受けられました。

また、ダブル主演の秋田汐梨さんも素晴らしかった。幾つかのテレビドラマで拝見したことはあって、この春高校を卒業したばかりという若さに反する大人っぽさと演技力に興味を惹かれていたのですが、舞台初挑戦には見えない溌剌で堂々とした演技と、スタイルの良さに肝を抜かれました。

 

さて。

物語は2人の従姉妹の仲の良さや、遼が村人から可愛がられている様を描き出すところから始まった(最初、とある理由から重めの雰囲気で始まるのだが、それはすぐに払拭された)。広い庭に面していて、大きな窓を開け放した居間。いかにも昭和の香り漂う家庭。修子の弟の一平は別室に籠ってゲームばかりしていたけど、時々には居間を通っていたようだし、家族たちも特別に手を焼いている風ではなかった(あの程度の内向性は、思春期の男子には珍しいことではない)。親戚や客も勝手に出入りする、風通しの良さそうな家だなと思った。

しかし、彼女が写真の現像部屋として中谷家の離れ小屋を使いたいと希望したことで、重苦しい雰囲気が漂い始める。

その離れは「喪屋(もや)」と呼ばれ、村で死亡した人を一晩安置するための「穢れ」とされる場所だった。でも今は、一平が引き籠ってゲームをするために占領している。それに、穢れといったところで、大都市部の不特定多数の他人ではなく、小さな村内のことである。特に問題はないだろう。実は、遼の母も学生時代には喪屋を勉強部屋として使用していた。遼も修子もそれを知っていたからこその申し出だった。

しかし叔父(修子の父親)・元の返事は芳しくない。

「お母さんも使っていたから大丈夫です」

「でもあいつは死んだ」

「一平がゲームするのは良くて、なんで遼はダメなの」

「一平は長男だからだ」

返ってくるのは、理屈の通らない理不尽で受け入れ難い言葉ばかりだった。村人との関係がこじれるのを恐れてか、馨は娘の為であっても元に対して強く頼むことができない。それでも結局は遼の熱意に押される形で、元は遼が喪屋を現像部屋として使うことを認める。

 

それはそれで「良かったね」という話ではあるが、やはり元や大人たちの反応は釈然としない。

僕自身、今時には珍しく、隣組や親戚の寄り合いというものが根強く残る土地・家柄で育ったので、そういう空気は肌で知っている。とりわけ、「長男だから」は大抵の理不尽をバイパスする呪いの言葉だ。物心つく前から「お前は長男なんだから」と刷り込まれ、冠婚葬祭や親戚付き合いのしきたりを叩きこまれた。長男ゆえに優遇されたこともあるにはあるけど、長男ゆえの面倒事の方が遥かに多かった(とは言え、少子化で長男の方が多い時代になってしまったから、この呪いは僕らの世代で消滅してくれるだろうと思っている)。

いつしか自分にとって当たり前のように受け入れてしまったことでも、傍目には「なんでそんなことしなくちゃいけないの?」という点も多々あるのだろうなと思う。

そういえば結婚してすぐ、法事に奥さんを連れていった時、焼香の順序や席次(言ってみれば親戚内の力関係そのもの)のルールが全然判らないと愚痴られたことがあった。自分からすれば「1+1=2」と同じレベルに当然のロジックだったので、逆に衝撃を受けた記憶がある。

 

話が逸れた。

 

しきたりというのは、既に「そういうもの」として、そこに存在している。起源が明確なものもあれば、そうでないものもあるけど、どちらにせよ本来のそれは、そこに関わる人達の生活を円滑にするためのものだったはずだ。あるいは、利益を生み出すためとか。例えば葬儀というのは、死者の為だけでなく、遺族の為の行事でもある(個人的には後者の意味の方が強いと思っている)。また例えば各地の漁協や農協は、相互監視システムじゃなくて、助け合いと長期利益確保の為に発足したはずだ。

それなのに、いつしか本来の意義が失われ、形骸化した枠組みだけが残り、そこに関わる人達を縛り付けるようになる。そしてそのシステムに囲われて育った人間は、本来の意義も忘れたまま、そのシステムを維持することに固執するようになる。時間の経過した組織・仕組みの常なんだろうな。

物語に登場する大人たちは、口を揃えて「決まりだから」と言う。適切な理由なんて思いつかないのに。彼ら大人にも、かつて子供だった時代があった筈だ。そして当時の大人たちの振りかざす理不尽に反発し、戦っていた筈だ。

それなのに。どうして、あんなにも重く、硬くなってしまうのだろうか。

 

その後、遼が東京の大学に進学したいという気持ちを父親に打ち明けるが、受け入れてもらえなかった。

「東京に行かなくたって写真の勉強はできるじゃないか」

「コンクールで賞を獲ったぐらいで調子に乗るんじゃない」

「それで失敗したらどうするんだ」

「もっと時間を掛けてしっかり将来の事を考えなさい」

ステレオタイプの説教ばかりで反論するまでもないからそれは割愛)

遼の意志は固く、温厚な彼女も怒り(あるいは悲しみか)を露わにして口論になることさえあった。しかし馨は頑として譲らない。そのうちには激昂して狂乱気味に娘に迫ってくるようになる。

馨の精神状態は、既に相当危うい状態にあったのだろうね。早くに妻を亡くし、幼い娘を一人で育てなければいけない不安。妻の一族の傍らで暮らすプレッシャー。慣れない土地の暮らしと、村人から向けられる忌避的感情。

その状況に加え、村人や中谷家との重要にして唯一の接点である娘の遼が居なくなることで、自分の居場所がなくなるかもしれないと考えて、恐怖さえ感じていただろう。馨にとって遼は異界から自分を守る「壁」であり、自分と異界とを繋ぐ「窓」だったと思う。単に「娘が一人暮らしを始めるために家を出る」という以上に重い意味を持つ出来事だったに違いない。

だが、それでも親が子の羽根を切り落として良い理由にはならない。結局のところ、馨の根底にあったのは保身だ。「娘の為」と言いながら、彼は自分自身の事しか考えていなかった。

子の世話をすることでしか、自身の価値を見出せない親

子に怒りをぶつけることでしか、ストレスを発散できない親

子に頼られることでしか、喜びを感じない親

子を束縛することでしか、自身の尊厳を実感できない親

子の将来にしか、夢を見られない親

こういうのが所謂「毒親」というやつなのだろうか。それを理解できない僕は、たぶん幸運に違いない。

子と離れるだけじゃなくて、一緒に人見村を出る選択肢だってあったはずだ。(劇中で描かれなかっただけなのか、本当にそれを考えなかったのかは不明だけど)そういう思考のプロセスを娘に示さずに頭ごなしに意志を否定するだけの行為に、真に愛はあっただろうか。

最終的に遼は親元を離れて東京の学校に行くことになるのだが、馨の本当の胸の内は判らないままだった。全てを受け入れて覚悟を決めたのか、単に諦めただけなのか。果たして。

 

それと前後して、幼い頃から常に一緒だった遼と修子の関係に変化が見え始める。修子が坂本先生に想いを寄せていることが原因だった。遼と坂本が2人きりで喪屋に居るところ(おそらく遼が坂本に泣きついていたであろうことと、それ以上の関係には踏み込んでいなかったことが示唆されている)を目撃してしまった修子は、遼に対して心を閉ざす。

この場面、学生時代に親友と同じ女の子を好きになって争い、結局僕がフラれて、暗く辛い青春を送ることになったトラウマが蘇ってきて、かなり修子に感情移入してしまった。

 

またしても話が逸れた。

 

遼と坂本が2人きりで喪屋に居たことが問題となり、写真部の活動や進学にやや暗雲が漂う。そんな折、元が枝打ちの最中に落下事故で亡くなってしまい、中谷家や村に衝撃が走る。

村のしきたりに従い、馨は元の遺体を喪屋に運び込む。跡継ぎが死者を送る儀式をしなければいけないからだ。その儀式とは、遺体の「目頭を押さえる」こと。木から落ちた衝撃で飛び出した目玉を戻して目を塞ぐ、という処置から始まった伝統だった。

馨は、動揺と恐怖で怯えて泣き叫ぶ一平を無理矢理喪屋に連れ込み、力ずくで目頭を押さえさせた。この物語を象徴するような、理不尽の極みとも呼べる痛ましい描写だった(この時、元の妻が馨に「貴方に村の作法で葬儀ができるの?」と高圧的に訊ねる場面があったが、これもまたある意味で、理不尽の結晶のように見えた)。

 

この一件を境にして(デウスエクスマキナのようでもあるけど)、ゲームにしか興味を示さなかった一平は人当たりが良くなり、修子は若干の気まずさを残しつつも遼と和解する。そして馨は東京に出ていくことになった遼を見送る。

事故が転機となって、各自の価値観が変わったのだと思う。拘りを捨てたり、新しく大切なものが生まれたり、見えていなかった他人の想いに気付いたり。そういった価値観の変遷というのは長い人生の中で何度も経験していく。ありきたりな言い方をするなら、一平や修子は少し大人になったのだろう。馨についても、もしかしたら元が亡くなったことで、林業組合を筆頭とする村人との関係に変化があったのかも知れない。

だけど、あの事件が彼らの人生において本当に必要な試練だったかと言えば、果たして疑問である。人は辛い経験でしか成長できないわけではないのだから。成長と引き換えに心に穴が開いたままなんて、哀しすぎる。

 

と、あらすじと一緒に場面ごとの感想を綴ってきたらだいぶ長くなってしまった。

 

全編を通して、人の魂を縛りつける重力のような存在をずっと感じていた。

地べたにへばりついて、自らを、そして身近な人々の魂を縛ろうとする、見えない何かの連鎖。魂を引き寄せ合う力というのは、おそらく多くの人がその必要性を感じて希求する力で、けしてネガティブなものではないと思うのだけど。

質量の大きいものが強い引力を持つように、人が多く集まると心を引きずり込まれて離してもらえなくなるのだろうか。人や組織は時間を経ると、魂に贅肉がついて重力に抗えなくなって、飛び立つ力を失くしてしまうのだろうか。

そんなことを考えさせられた作品でした。

アンビバレントな心を抱いて10月のプールに飛び込もう

映画「僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46」を観てきたので感想を...と思って9月の頭から書き始めたエントリーだけど、なかなか筆が進まずにいた。その内、脱稿するより前にLASTライブ配信を観ることになり、書いている途中で欅坂46に対する見方が変化してきた。変化というよりは、改名発表→ドキュメンタリー鑑賞の間に感じていた、自分でも明確にできなかった感情をようやく整理して文章化できた、というべきか。
そこで、書きかけの原稿を大幅に加筆修正して、映画の感想に留まらず、欅坂46をウォッチしてきた5年間の総括という形にした。映画の細かい感想は、また別の機会にまとめようと思う。
 
そういう経緯なので、初期の頃のイメージで書いたパートや、LASTライブを観た後に感じて書いたパートも、それぞれの時期での感想が混在していて、相当まとまりのない文章になっている。時系列はバラバラだし、自分で読んでも矛盾しているように思う箇所が結構ある。
けど、欅坂46に対する僕の想いは、複雑かつアンビバレントで、どれもその時々で感じた偽らざるものだ。だから敢えて、その揺らぎを訂正せずに残した。上書きしたい思考と、保存しておきたい感情との間に。
 

似顔絵

だいぶ前にTwitterに投稿してるんだけど、こっちに載せておくのも良いかなと思って、自分なりに上手く描けたと思う2作を載せておきます。ブログ長期間更新しないと余計なad広告出ちゃうらしいので、賑やかし(ごまかし?)も兼ねて。笑

 

今年の飛鳥ちゃん生誕祭は絵を描く時間が無くて断念。生誕には間に合わなかったけど、何か新しいの描けたら良いなとは思ってます。

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2020年・西野七瀬生誕祭によせて

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2019年・齋藤飛鳥生誕祭によせて

 

歌は良いね。リリンの生み出した文化の極みだよ。

ひさびさの投稿。

今回はちょっと趣向を変えてみよう。

 

4月4日に放送の、なーちゃん(西野七瀬さん)が出演していた「名曲!お宝音楽祭」を見ました。その中で、たくさんの有名人が、自身が中学2年生時に聴いてた歌を10曲紹介する「青春の中2プレイリスト」という企画がありました。

それを真似て、僕も自分の中2時代のプレイリストを作ってみようと。

 

当時を思い出しながら、ヘビロテしていた10曲を紹介します。

 

1. ユニコーン / 働く男

4歳上の姉がバンドマンと付き合っていて、その影響で小学生の頃からユニコーンにハマっていた(ヒットチャートと言えば圧倒的にアイドル全盛期、特に光GENJIが常連だった時代)。ませた小学生だったなと思う。

そして中2の時、初めて自分の金でこのCDを買った。当時のシングルCDは今のマキシシングルと違い、8cmサイズで縦長ペラペラのパッケージ(30歳ぐらいまでの人は覚えがあるかな?)で、2曲封入が標準だった。そしてこの曲は、なぜか表題曲(A面)にも関わらず、2曲目に入っているという変化球。

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曲を作った民生さんが「自分の中で最高の出来」と言っていた記憶がある。

サラリーマンの悲哀を恋愛に絡めて描いた曲で、当時まだ子供だった僕は「大人になったらこんな人生を送るのだろうか」という不安と期待を抱きながら聴いていた。

夢で逢えたら」というダウンタウンウッチャンナンチャンが共演するバラエティ番組のオープニング曲(サザンのフリフリなんかも使われていた)。深夜にもかかわらず視聴率20%を超える人気だった。

 

2. ユニコーン / I'M A LOSER

2ndアルバム「PANIC ATTACK」のオープニング曲。

民生さんのアカペラのオープニングがメッチャ好き。

当時、自分で作ったカセットの一番最初の曲にすることが多かった。CDを買うか、ラジオか借りたCDからカセットにダビングする以外に音源を手元に残す手段が無く、いろんなミュージシャンの曲を混ぜていたので、正に今でいうところのプレイリストそのものである(乃木坂の鈴木絢音ちゃん出演ドラマ「ハイポジ」でもそんな描写がありましたね)。

それにしてもPANIC ATTACKは本当に名盤だと思う。

 

3. BOOWY / B・BLUE

BOOWYという伝説的なバンドの存在は知っていたけど、曲をちゃんと聴くようになった時には既に解散していた。確か、解散後に発売されたベスト盤を同級生に借りて聴いたのだと思う。 

バナナマンの2人が大好きな曲ということで、乃木ヲタにもお馴染みの曲。
スピード感のある骨太なサウンドと、妖艶なボーカルの声に聴き惚れました。

 

4. X (X JAPAN) / SADISTIC DESIRE

言わずと知れたモンスターバンド。当時は「X」一文字だったし、やっぱり今でも「JAPAN」には違和感がある(笑)。

紅やENDLESS RAINでブレイクしたけど、それより前の曲。とにかくカッコイイ。ただただカッコイイ。

当時はもっとヘビメタ色が強かった。歌詞もアレだし(察してください)。これが収録されたアルバム「Vanishing Vision」のジャケ写の絵は、今の時代ではたぶんアウトだろうなぁと(半裸の女性の胸が刃物でXの字に切りつけられている)。はてブ的にも絵を載せたら垢BANされそう。

初めてノーメイクでテレビに出た時は話題になったし、20年以上後になって美空ひばりやAKBのカバー歌うとは思いもしなかったよなぁ...。

 

5. BUCK-TICK / PHYSICAL NEUROSE

いわゆるビジュアル系バンドの走りで、やや退廃的な雰囲気を持ちながら、この曲は比較的ポップ色が強かった。歌詞は全然意味が解らなかったけど、ちょっと歪んだテクノ調のサウンドがカッコ良くて聴きこんでいた。

これも姉がバンドマンの彼氏から仕入れてきた曲で、ダビングしてもらったカセットテープをひたすらヘビロテした。繰り返し再生しすぎて、文字通りテープが伸びて擦り減って、音が出なくなるまで聴きこんだ。CDやPCデータは擦り減らないので、本当に良い時代になったと思う。

 

6. RED WARRIORS / WINE & ROSES #2 (バラとワイン)

最近はバラエティ番組で見ることが多くなったダイアモンドユカイさんがボーカルを務めたバンド。これも知った頃に解散だった気がする。

アルバムに収録された「WINE & ROSES #2」を先に聴いたけど、元々は「バラとワイン」というタイトルのシングル曲の別バージョンだと後で知った。

ゴージャスで色気に満ちていて、大人の世界への憧れを強く抱いた曲。

 

7. ユニコーン / おかしな2人

3rdアルバム「服部」収録曲。2ndまではビートロック主体のカッコイイ系だったのが、突然コミカルな感じに舵を切って驚いた。そんな中で、前作までの作風も残るのがこの曲だった。後半の盛り上がりがメチャメチャ好き。

ちなみに、同アルバムに収録されている「大迷惑」はデビュー3年目でようやく発売された1stシングル曲でした。

 

8. BUCK-TICK / MEMORIES...

上のPHYSICAL NEUROSEと同じ「SEVENTH HEAVEN」というアルバムに収録。

サビから始まる曲で、悲しみを抱えつつも歌詞の通りに空高く飛翔していきそうな解放感が堪らないなぁ...と。最初のサビは英語詞で次のサビは日本語詞。どちらもほぼ同じ意味なんだけど完全な翻訳というわけでもなくて、「日本語詞と英語詞ってこういう違いがあるんだ」と感心した。

 

9. BOOWY / ホンキー・トンキー・クレイジー

1stシングルだけど、これもB・BLUEと同じベスト盤に収録されていて知った。

Jazzyなメロディと、あまり意味が解らないけど大人っぽくてカッコ良い歌詞が気に入ってました。後になってから調べてみたら、ホンキートンクというのは100年ほど前のアメリカ南部の安酒場や、そこで流行した音楽に由来しているようで、中学生の自分が感じた印象もあながち間違いではなかったのだなぁと。

ちなみに、この曲のサウンドプロデューサーは、いくちゃんの親戚として乃木ヲタにも知られる佐久間正英さん。

 

10. ユニコーン / Maybe Blue

 1stアルバム「BOOM」のリード曲。ファンの間でも人気の曲だったけど、上述の通り、シングルカットはされていない。

今のユニコーンの作風とは全くの別物で、ひたすらキザなフレーズのオンパレード(笑)。でも大人の恋模様という感じで、当時の僕にはとにかく憧れでしかなかった。こんな詩的な恋愛を経験できたかなぁ...。

 

プレイリストには入りきらなかったけど、他にリンドバーグオフコース久保田利伸、サザンなんかも当時は良く聴いていました。あと僕の中で殿堂入りしているB'zですが、中2の年に発売された4thアルバム辺りから聴き始めて、どハマリしたのは中3になった頃なのでリストからは除外。

とまぁ、こんな感じです。

 

これを書いてる間、ずっと脳内ヘビロテで楽しかった。

タイトルはふざけてエヴァ引用したけど、歌ってホントに良いなぁと思います♪