タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

Love is...

ずっと前、学生時代に友人たちと「恋」について延々と語り合った事をふと思い出した。
細かい内容やその時の心情は曖昧にだけど、その事実だけを明確に。

「やっぱ恋って○○だよね」「カノジョほしーーー」「お前はエロいことしか考えてないじゃん。恋ってもっと純粋だから」「好きってどういうこと?」「どこからが浮気?」「カノジョ以外と食事とかアウトでしょ」「手ぇ繋ぐぐらい良くね?」「付き合ってその先どうするの?」「結婚とか将来とか考えたくない」「相手も居ないのに結婚とかアホじゃん」「恋って何?」

仲間の冷めた視線など気にせず、各々が勝手に考える恋愛観や好きな子への思いを、ただひたすらに。飽きもせずに毎度毎度同じ話題を、安酒を飲みながら朝まで延々と繰り返して、そして結論なんか出るわけもなく、毎度毎度「恋って良いよね」「恋してぇな」と、愚にもつかない落とし所とともに宴がお開きになった記憶だけは残っている。

 

ーーーーーーーーキリトリセンーーーーーーーー

 

「恋って何?」

考えたらキリが無いなと思う。
だって、恋はComplex=複雑に絡み合っていて、感情の揺らぎがストレートに表出するものではないから。
楽しい時や嬉しい時、大抵の人は明るい表情になる。悲しい時や辛い時、大抵の人は暗い顔になる。でも、恋は喜怒哀楽のどれでもあるし、どれでもない。だから一口に「恋してる」と言ったって、内心でどのような感情を抱いているのか、周りには判らない。本人にだって判らないかも知れない。

 

そもそも、言葉の定義からして曖昧だ。

特定の誰かを思い浮かべた時に、その相手を求める気持ちや胸の高鳴りや苦しさを、最初に誰かが言語化して、他の誰かも自分と似たような気持ちを抱いていることを知り、お互いの共通認識として、そのようなボンヤリとした思いを「恋」と呼んだ。
元々は、ただそれだけのことなのだと思う。

実際のところ、誰かが誰かを思った時の胸の内の燻りって、人それぞれ全く違うと思うんだよね。要因も強さも方向性も、そして、その表し方も。それらを全て同じ「恋」として定義するのは少々乱暴なんじゃなかろうか。
(だからこそ僕は、友人たちと飽きもせず毎日のようにお互いの思想をぶつけ合っていたわけで)

 

「恋らしき感情」の表層部分の揺らぎだけを言葉として掬い取れば、「恋」は何でもありになる。
「恋とは○○である」と内容を明確に限定すれば、自分が恋だと思っていた感情は実は恋ではなかったのかも知れない...となる。

 

恋をするのは面倒だし、恋とは何かを考えるのもまた面倒だ。

今回観た映画「恋は光」は、そんな「恋って何?」という、非常に面倒な命題に真正面から向き合っている。

happinet-phantom.com

主人公は「恋をしている人が光って見える」という特殊能力を備えた大学生の男の子・西条。
そして、その主人公と関わりを持つ3人のヒロイン。
-西条と幼馴染で、西条から「恋の光が見えない」と言われてしまう女の子・北代
-「恋の定義」について思案し、そのことで西条と意気投合する女の子・東雲
-他人の恋人を奪うことに喜びを感じ、西条に執着する女の子・宿木

 

あらすじ紹介にもある通り、「恋の定義とは?」という議論が物語の中心になる。
時にロジカルに、時にエモーショナルに、恋の定義について彼らは語り合う。

 

なぜか人は他人にも共感を強要して、自分の考える「恋」と他人の考える「恋」が根本では同じものだと思いたがる。だけど彼らは、考えの擦り合わせを図りつつも結論を急がず、かつ曖昧なまま対話を終わらせたりもしない。その言語化できない情動をどうにかして体系化・言語化しようと思案して葛藤して、そしてまた対話しながら思案を繰り返す。ロジックとエモーションという対極の両方を含んでいて、それでいてどちらでもないような、不思議な感覚の正体を探し続ける。

若い
甘い
青い
淡い
苦い
鋭い
脆い

そんな剥き出しの心がぶつかり合い、混ざり合い、愛し合おうとする。

 

僕が曖昧にしたまま投げ出してしまった、あの頃の問いの答え合わせを見ているようで、眩しくて切なくて、そして愛おしい気持ちで胸がいっぱいになった。

恋の楽しさに浸る人にも、恋に悩み惑う人にも、恋を諦めた人にも、ぜひ観て欲しい。
「恋って良いな」と素直に思える、素敵な物語でした。

 

#西野七瀬