タイトロープ

人生綱渡り。決心のきっかけはいつも時間切れ。

心の置き場所

映画「いつのまにか、ここにいる Documentary of 乃木坂46」を観た感想を。

大半のシアターで公開終了したけど、中にはこれからの地域もあったりするので、ネタバレが嫌な人はUターンしてください。

 

 

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本題の前に少し。

フォーカスされるメンバーに偏りがあるって批判を多数見かけた。それについては理解できなくもないし、何より「お前は最初から最後まで推しメンずっと出てるから良いよな」って言われてしまうと何も言い返せない。

けど、作品自体の評価をキャスティングだけで決めてしまうのは勿体ないし、振り返って考えると、仮にフォーカスされてたのが違う子だったとしても、この映画に対する僕の評価は変わらなかった気がする。まぁ、それだって「推しメン映ってたからそんなこと言えるんだよ」って言われたら、やっぱり反論しづらい。たらればの話だもんね。

それに推しメン可愛くてニヤニヤしてたのは事実だし。 ←

 

いわゆる「推し補正フィルター」については、自分自身のことなので全く以て客観的に判断できない。バイアスが掛かってるかも知れないし、そうじゃないかも知れない。ただ、そんなことは問題じゃない。以下は「僕が」あの映画を観て心揺さぶられたポイントを思い出し、「何に対して」「なぜ」感動したのかを改めて自己分析して、出来る限り正直に、頭の中に浮遊している諸々を文章として再構築したものだ(シリアスな題材に引っ張られて、ちょっとカッコつけた感じになってしまったけど)。推し補正と言われようが、綺麗事と言われようが、とにかくそういうことも全部ひっくるめて、僕の中の理屈でしかない。

たびたび言ってるけど、僕は僕の主観でしか物事を見られないし、考えられない。これは、あくまでも「僕の感想」です。これが正しい解釈だなんて主張する気は更々ない。勿論、感動したポイントやその理由に共感を得られたなら、とても嬉しいけど。

それでは。

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前作「悲しみの忘れ方」とは随分テイストが違うなという印象。前作はメンバーの家族にインタビューしたり、彼女らが乃木坂加入(結成)前から心に抱き続けてきた負の面に強めのスポットを当てていたように見えた。それは内気な少女が自分自身を変えようと懸命に足掻こうとする姿だった(必ずしもポジティブな動機ばかりではなかったと思う)。

今作の公開を知った時、実は「今さら掘り起こすことが残っているのか?」と少し心配していた。彼女らの過去やデビュー当初の辛い思い出は、至るところで語り尽くされている印象があるからだ。今作の冒頭で岩下監督自身の独白にあるように、アイドルドキュメンタリーは少女の成長譚こそがメインストリームであって、既に大成してしまった彼女たちの何を語るのだろう、と。

けど映画が始まって間もなく「これは岩下監督による、乃木坂46体験記なんだ」と感じた。前作のように彼女らの人柄や過去を掘り下げたものというよりは、彼女らの活動にくっついて回った時に見えた、「この子たちは普段こんな感じで日常を過ごしてますよ~」っていうルポルタージュなんだと。

だからこそ、あまり彼女たちのことを良く知らなかったと語る岩下さんに、製作を依頼したのかも知れない。新しい映像作品が出るたびに、ファンから「この撮り方は**さんに違いない」なんて確定予測まで出てしまうほど、乃木坂に関わるクリエイターさんと彼女たちの距離は縮まっていて、歴代の映像作品でたびたび名前が挙がるような人達から繰り出されるコンテンツというのはある種の着色がなされているように思う(それが悪いことだとは考えていない。その距離感から生まれるコンテンツというのも、それはそれで素晴らしいものだったりするから)。今回の手法は、そういったクリエイター陣が手掛けていたら、彼女たちとの距離感が近すぎて失敗したんじゃないかな。たぶんだけどね。

そんなわけで、これまでも微かに見え隠れしていた、漏れ聞こえてきた、彼女たちの普段の姿に、(岩下さんの目を通してではあるけど)改めてハッキリと触れる機会を得た、というのが今回の作品だと思う。

 

監督が目を付けた通り、彼女たちは過剰なまでに仲が良い。真相は判らないけど、少なくとも僕には、本当に仲が良さそうに見える。ただ、白石も桜井も語っているように、何か事件があったわけではなく、気が付いたらこんなに仲良くなっていたとのこと。

たぶん、これはAKBのライバルとして結成されたという経緯や、それでいてAKBと隔絶された環境で活動してきたことなども影響しているのだと思う。公式ライバルという肩書を「利用できる」立場ではあったけど、逆にそれが強い枷になっていたという側面もあったはずだ。

「『公式ライバル(笑)』って何」

「AKBにすり寄ってくるんじゃねぇよ」

そんな感じのバッシングは当初から僕も目にしていた。だけど頼れる先輩もおらず、彼女たちは自力で道を拓くしかなかった。特に上昇志向の強い子が居るわけでもない。それでいて選抜とアンダーに分けられる葛藤。選ばれた者の悩み、選ばれなかった者の苦しみ。それでも尚、見えない敵と戦い続ける毎日。目指す頂は麓さえ見えない。

憶測でしかないけど、そんな中で彼女たちが寄り添い合い、支え合っているうちに、互いを守って守られる関係性が自然に構築されてきたのだと思う。時に仲間の盾に守られ、時に自分が仲間の盾になり、時に仲間の声に背中を押され、時に傷ついた仲間に手を差し伸べ、濃密な時間を経て、かけがえのない戦友になったのだと。「家族とも友達とも違う。メンバーは自分にとって大切な仲間だ」と、17年の神宮ライブで生駒がそんなことを言っていた覚えがある。

あの仲の良さは、彼女たちが互いを大切に想う気持ちの強さの表れではあるけど、一人一人の心細さの表れのようにも見える。「大切な人の為に頑張る」って、言葉にすると陳腐だけど、人は自分の為だけに頑張れるほど強くもない。誰かの為に頑張るのは、自分を奮い立たせる為でもある。辛い時ほど「誰かの為に」という気持ちが自分を支えてくれる。それは重荷なんかではない。むしろ原動力、モーティブだ。彼女たちはグループがあるからこそ強くいられるのだと確信している。終盤の生田の「乃木坂の現場に行かなきゃ、乃木坂に居たい、って想いは年々強くなってる」という言葉もその表出だと感じた。

常に誰かと寄り添い、抱き合っている彼女たちの姿を見て、そんなことを考えた(序盤の西野と与田が目を閉じて抱き合っているシーンで号泣してしまった)。

 

そうしてスクリーンの向こう側に感情が引き寄せられていき、2度目のレコ大直前の円陣のシーンで、彼女たちが互いを想う心を想像して、優しさと苦しさで胸が張り裂けそうになった(2度目の号泣)。更に、歌い終えた後のSeishiroさんの「みんな想い合ってたね」という言葉。そして笑い泣きを浮かべる大園の「乃木坂も悪くないな、って思って...」という言葉と、それを聴いて彼女を抱き寄せながら自らも涙を落とす飛鳥。特に大園はその前に「素のままでぶつかってしまうから傷付くことが多い」という発言をしていただけに、その言葉が強く響いた。乃木坂46とは、そんな彼女がこれほどまでに心を許せる場所なんだなと(3度目の号泣)。

そして見事にレコ大2冠を獲得し、「最高の帰り道」へと繋がっていく(紅白のシーンでn度目の、ってもう良いです)。

この後に西野への単独インタビューがあり、彼女はここでグループから離れることが強調された。卒業にまつわるメンバーたちの葛藤はおそらく今後も続いていくのだろうけど、少しずつ噛みくだいて(あるいは慣れて)、心を痛めながらも、彼女たちは互いの手を強く握って前に進んでいくに違いない。その前途に幸あれと、ただただ願うばかりだ。

グループアイドルとは何ぞや、とか、卒業というものについても触れたいけど、長くなるのでそれはまた別の機会に。

 

物語は飛鳥の成人式&同窓会という、だいぶ個人的な部分に斬り込んでいくことになる。終わってみたら、これはこれで興味深い内容だった。

今までも薄々感じてはいたけど、齋藤飛鳥という人物はだいぶ人付き合いに癖があるように思う。ここでいう癖ってのは必ずしも悪い意味ではないけど、少なくともスムーズに誰とでも付き合える万人受けするようなタイプではないよね、という意味で。同窓会の様子を伺う限り、どう見てもヒエラルキーの底辺というよりも、完全に枠の外だった。ずっと壁に張り付いている映像なども序盤で紹介されていた。

だけど、そんなやや変わり者の彼女が乃木坂の中ではメンバーから可愛がられ、慕われ、重要なポジションを任されることが多々ある。悪目立ちする子をセンターに据えるようなケースが他のグループで散見されるけど、それとは明らかに毛色が違う。彼女みたいなキャラクターが許容され、歓迎され、グループの顔として輪の中心に居られる、というのは世間の傾向からすれば特異だし、それこそが乃木坂というグループ独特の雰囲気を象徴している。

また、彼女はたびたび「自分なんて」といったネガティブなワードを発するけど、これって乃木坂ちゃん全体にも通じるものがあって、そういう自信の無さが彼女たちの謙虚さの根底にあると思うし、上述の通り、彼女たちの互いを想い合う気持ちの要因にもなっていると思う。

 

まぁそれでも、最終章の海外旅行兼単独インタビュー必要か?とは思いました。 何そこにあった花を渡すとかオシャなことやってんだよ!監督が個人的に飛鳥好きなだけじゃねぇか!とか下世話な感想しか出てk(ry けど繰り返し何度か観ているうちに少し感じたことがありました。

グループが結成された当時、飛鳥は13歳。思春期の入口に差し掛かった頃か。そんな彼女ももう立派に成人した。「7年あれば人は変わる」という説明と共に、本人の口からも、だいぶキャラが変わった旨が語られていた。また、彼女は1stこそ選抜だったけど、その後は浮き沈みも激しく、選抜に定着したのは中期以降だ。

一方で、グループ全体としての流れを振り返ってみると、ただ言われたことだけを夢中でこなしていた草創期から、仕事をすることの悩みやいろいろな苦労を経て一人一人が成長し、最近ではすっかり円熟味を帯びてきた感がある。

この、乃木坂46がグループとして成熟してきた過程が、ちょうど飛鳥の成長曲線と重なっているような気がした。勿論それは単なる偶然でしかないし、そのような成長は飛鳥だけじゃなくて他のメンバーにも当てはまることだ。だけど、彼女のキャラクターや言動が、乃木坂のグループ全体の雰囲気の象徴的な表れ(ある面に於いては、だけど)だという見方は、自分にとっては結構譲れないポイントだったりする。

仮に、乃木坂46というグループに人格があるとしたら、擬人化したら飛鳥みたいな感じの女の子になるんじゃないかなって。エディンバラの静かな海を見下ろしながら訥々と語る彼女の言葉を聞く内に、ふと、そんなイメージが頭をよぎりました。

「期待しないなんて言ったけど、嘘かも知れない。期待してる気がする」

「何に?」

「人に」

たぶんあれは、メンバーに対しての言葉なんだろう。

「こうなったら良いな」という願望のことを「幻想」とまで卑下する彼女。自分が傷付くのが怖くて、人を傷付けるのが怖くて、メンバーとも距離を置く。でも、この仲間となら、たとえ傷付いても、傷付けられても、寄り添っていたい。自分に自信が持てなくても、この仲間が背中を押してくれるなら、この仲間のためなら、自分を奮い立たせて進むことができるかも知れない。

この仲間と一緒なら、いつまでも手を繋いで歩んでいける。どこまででも高みを目指せる。

 

乃木坂の仲間になら期待しても良いのかな。

 

そんな可愛らしい本音が一瞬だけ顔を覗かせた気がするのです。

感じた内容は違うだろうけど、岩下監督も、あの時の飛鳥の言動に「乃木坂を象徴する何か」を感じたからこそ、あのパートを物語の最終章に持ってきたはず(その正解は永遠に提示されることがないのが残念だ)。

 

そして主題歌の「僕のこと、知ってる?」が流れ出し、彼女たちを知る旅は終わりを迎える。

あの歌詞は、有名になりすぎてしまった苦悩、夢中で駆け抜けてきたが故に自分の立ち位置を見失いかけている不安や、実感の伴わない評価による空虚感といったものが込められている(所詮は秋元康が書いた歌詞なので、彼女たちの思考がそっくりそのまま投影されているなんて思わないけど、近しい心情を持ち合わせているであろうことは想像に難くない)。

その空洞を埋めるかのように、悩みを共有して、不安に呑まれまいと、彼女たちは寄り添い合っている。そんな気がしてならない。

今年の夏の全国ツアー、名古屋公演でこの歌が披露された時は初聴きだった。その数日後に映画を観て改めて歌を知り、歌詞に込められた意味を考え、福岡公演で再度この歌を聴いた。1期生から順に歌唱パートを担当し、最後に4期生が歌いながら小走りで先輩たちが待つ輪の中に加わっていった。その演出を見た瞬間に、涙が溢れてきた。

僕たちファンが見ているものは、彼女たちの生の人生そのものであり、これ以上ないほどに、重く、尊く、眩いものだ。映画を観終わった時、彼女たちのことをますます好きになったし、彼女たちを応援できることが本当に有り難いと感じた。

 

とまぁ、そんな感想です。

たぶん今までの中で一番長いエントリーです。読んで下さって有り難うございました。

 

追伸:

僕としては推しメン(ここでは西野七瀬さんのことです)が「自分の人生を振り返った時に、この間だけめっちゃキラキラしてると思う」と語ったその言葉だけで満足です。彼女が自らの活動をそれほどまでに肯定的に捉えていた、ということが何よりも心の底から嬉しい。

 

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さらに追記。

ここに入りきらなかった感想を別エントリーでまとめました。

hide-b247.hatenablog.com